スピルバーグ監督の新たな到達点 『ブリッジ・オブ・スパイ』に宿る信念を読む

 『M:I-5』や『007 スペクター』、『キングスマン』に『コードネーム U.N.C.L.E.』と、最近になって、イギリスやアメリカで製作された質の高いスパイ映画大作が次々と公開され、各作品とも話題を集めている。この流れのなかで、今や映画史に大きく名を刻む巨匠となった、スティーヴン・スピルバーグ監督によるスパイ映画『ブリッジ・オブ・スパイ』が完成した。そして本作は、これら現実離れした、次々にアクションが連続するような娯楽活劇とは全く趣が違い、冷戦時代に捕虜となった両国のスパイを交換するために交渉を重ねていくという、歴史的な事実を基にした比較的地味な題材の人間ドラマだった。

 だが本作は、そのドラマを極限まで丁寧に撮りあげることで、おそろしい境地にまで到達した傑作に仕上がっていて、とにかく驚かされる。同時に本作は、スピルバーグ監督の新たな到達点としても記憶される作品になるだろう。それほどに、このスパイ映画は娯楽作品としてベーシックな面白さがあり、また、尋常でない奥行きがある。今回は、派手な他作品と比べると分かりにくい、本作の「凄さ」について、できる限り深く考えていきたい。

近年のスピルバーグ映画に宿る「ただならない」迫力

 

 もはや説明など不要かもしれないが、スティーヴン・スピルバーグ監督は、20代から頭角を表した、娯楽映画の天才監督であり、1970年代から40年ほどの間、ハリウッドの第一線で、複数の抜本的な技術改革を成し遂げながら、自身の製作会社ドリームワークス設立後も、あるときは製作者として、あるときはヒットメイカーとして、途切れることなく精力的に映画づくりを継続している、まさにハリウッドの「生ける伝説」といえる映画監督だ。彼の監督作品のなかには、娯楽映画のみならず、『カラー・パープル』や『シンドラーのリスト』に代表される、政治的なメッセージのあるドラマ作品という、もうひとつのラインが存在する。その分裂した作品への取り組みは、スピルバーグ監督の尊敬する、娯楽作と芸術作品を同時に撮り続けた、アメリカを代表する巨匠、ジョン・フォード監督の偉業をなぞるかのようだ。

 とくに、直近の二作、ラストの凄まじい夕景が炸裂する『戦火の馬』、南北戦争の陰惨ながら美学的な描写が見られる『リンカーン』は、さらにジョン・フォード作品の影が濃くなり、かつてない「湿った」迫力に圧倒される。そこには、フォード監督が一貫して描き続けた「アメリカ魂」とでもいうべき、演出的なテクニックを凌駕する、熱い色気や、精神性が宿るまでになっている。しかし、このような映画の枠をはみ出してくるような試みは、それが極端な方向に振り切っているがために、広い理解を得られなかったことは確かだろう。それは、『シンドラーのリスト』や『ミュンヘン』でほとばしる暴力性が、全面的には支持を得られてこなかったこととも繋がるかもしれない。

 では、『ブリッジ・オブ・スパイ』はどうかというと、これも紛れも無く人間ドラマを優先させたラインの作品でありながら、そういった難解な印象は、ほぼ無くなっている。だがそれでも、前二作にあった「ただならなさ」はそのまま継続しているように感じるのである。これは、どういうことだろうか。

演出テクニックによる「鬼気迫る慎ましさ」

 

 マーク・ライランスが演じる、ソビエト連邦からのスパイ、アベルが鏡を見ながら自画像を描いているオープニング・ショットから、本作のただならない空気が強く漂ってくる。彼の仕事部屋は二つに仕切られ、片側で絵を描き、もう片方で通信機を操るという、相反する二面性が間取りで表現される。そして彼は、鏡に映る自分の像を見ながら、さらにそれを反転した絵を描いているのだ。この分裂した彼の像が並べられているワンカットのみで、スピルバーグ演出は、「スパイ」の人格を雄弁に表してしまう。

 鏡をはじめとする、小道具を駆使した象徴的な表現、さらに、登場するモチーフを共通させるというテクニックによる「韻を踏む」ように流麗に場面転換していく手法など、本作の演出は、驚くほどオールドスタイルを貫いている。現実的な表現を追ってドキュメンタリー風の演出に傾く現代の映画とは、全く逆のベクトルである。

 だが、このような手法が心地よく感じるのは、ともすれば冗長であざとく感じさせるような、難解な「芸術性」に飛躍することを、今回に限っては、監督自身が意識して戒めているからだろう。曖昧な雰囲気や情緒などが許容され得る「映画」の世界において、本作の全てのシーンは、ドラマを的確に表現しテーマを浮かび上がらせるためにしか、その優れた演出術は利用されていない。この過不足の無さが、作品に新たなリアリズムと力強さを与えている。その「鬼気迫る慎ましさ」が効果的に作品を牽引させているという事実は、142分もの長尺であることを全く感じさせないタイトな印象からも理解できる。ドラマを駆動させる、この「抑制と論理の積み上げ」の徹底が、本作の凄みの源泉なのである。

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