大人の悲哀ヒーロー映画『アントマン』が描く、小さな世界の壮大な人間ドラマ

アメリカの喪失と人間ドラマの深み

 『アントマン』の主人公、スコット・ラングは、窃盗の前科により、妻と別れ、娘の養育権を失い、再就職にも失敗する。そして、娘の誕生パーティーに出席しようとして元妻の新しい夫に追い返されるという、どん底の境遇に陥る。彼は、娘の養育費を払い信用を取り戻すために、また犯罪に手を染めてしまう。この描写からは、経済力の有無や社会的影響力が重視されるアメリカ社会や、犯罪者の烙印を押された市民が浮かび上がりにくい現実の過酷さを感じさせられ、娘の病気を理由にしていた原作の設定よりも、より身につまされるものになっているといえるだろう。

 ペイトン・リード監督の映画は、どれも、小市民が幸せになるために、自分の生き方を模索していくという作品になっている。なかでも、ジェニファー・アニストン主演の、倦怠カップルのケンカを描いた恋愛映画『ハニーVS.ダーリン 2年目の駆け引き』は、リード監督作の中で、最も人間の心理の過酷さに踏み入る作品である。真の意味での愛情とはなにか、そして、他人のために自分を変化させることを、ギャグを交えながらも深刻に描き、その過酷な喪失感は、観客の心を締め付ける。アメコミ映画のなかに、ジャンル的な価値を超えて、例えば深い文学性を獲得する作品があるように、恋愛映画にも、そのような深みのある作品がある。ペイトン・リードは職人的でありながら、そのような部分に挑戦している作家ともいえる。

 アメリカの作家、F・スコット・フィッツジェラルドは、好景気に沸く社会の狂騒の時代を小説で描いた。これが彼の代表作であり、アメリカ文学を代表する小説ともいわれる、「グレート・ギャツビー」だ。それは、若者として第一次大戦という時代を生きることによって、得るはずだった幸せを逃した空っぽの男が、奪われた青春を取り戻そうともがく物語である。このような世代の喪失感を描いた文学は、「ロスト・ジェネレーション(失われた世代)」と呼ばれた。そのフィッツジェラルドによる短編、「バビロン再訪」は、それより三十数年後に書かれた作品である。狂騒の時代に、かつて放蕩の限りを尽くし、自分の行動によって妻を失くし、また娘の養育権を失った男が、大恐慌後のパリで、親戚に育てられている娘と会い、信頼と養育権を取り戻そうとする。もう若くない主人公は、「娘と一緒に暮らすこと以外には、たいして良いことはない」と考える。あれこれと未来を夢見る余裕はなく、ただ娘だけが彼の希望なのだ。その姿は、自分の失われた青春の穴埋めをしようとする「グレート・ギャツビー」の喪失とも、『アントマン』の主人公、スコット・ラングの喪失とも重なっていくだろう。そして現代を描く『アントマン』のそれは、貧富の格差によって生じる、アメリカ社会が持つ喪失感そのものでもあろう。

 愛情をこめてスコットが「ピーナッツちゃん」と呼ぶ娘は、「バビロン再訪」同様に、全てを失くした彼にとっての、ただひとつの心の拠り所である。そして、ここで描かれる娘とは、人間の追い求める幸せの象徴であり、人間の生きる意味そのものなのだ。だからこそ、アントマンになったスコットは、娘のために命を捨てて、超ミクロの「量子の世界」に飛び込んでいく。

 この量子の世界を描くというアイディアは、エドガー・ライトの脚本に、ペイトン・リードが新たに追加したものであるという。ミクロのサイズになることができるアントマンが、際限なく縮小を続けていくと、その小さな世界の先には、宇宙のような広大な世界が広がっている。世界を救うヒーローでありながら、みじめな男の心理を描く小さな物語は、壮大な宇宙の秘密という、これまでの、どのマーベル・コミック原作映画も描かなかった、巨大なスケールにまで行き着く。

 そして、その孤独な宇宙で彼の心にあるのは、ただ娘への愛情のみなのである。これはまた、人間の心のような小さな世界を描くことには、無限の宇宙を描くことと同じくらい壮大なものだという、これまで人間個人の小さな葛藤を描くことに挑戦してきた、ペイトン・リード監督の信念を表現しているようにも見えるのだ。

■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト

■作品情報
『アントマン』
全国公開中
原題:ANT-MAN
監督:ペイトン・リード 製作:ケヴィン・ファイギ
出演:ポール・ラッド、マイケル・ダグラス、エヴァンジェリン・リリー
配給:ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン
(C)Marvel 2015
公式サイト:http://marvel.disney.co.jp/movie/antman.html

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