宮台真司の月刊映画時評 第2回(前編)

宮台真司の『野火』『日本のいちばん長い日』評:戦争を描いた非戦争映画が伝えるもの

天皇戦争責任論を一掃した作品群

 『終戦のエンペラー』と『いちばん長い日』は噛み合います。『終戦のエンペラー』は天皇の戦争責任が3点で成り立たないとします。第一に、12月8日開戦3カ月前に明治天皇の御製短歌を引用し御前会議で開戦反対意思を表明されたこと。第二に、陛下が意志を表明されたから総玉砕を回避できたこと。第三に、終戦後のマッカーサー拝謁が周囲の反対を排けて独断でなされたこと。マッカーサー回顧録には陛下が他の者に罪はないから私を処刑せよと述べたとあり、これでアメリカの天皇処刑論が一掃されて国体が護持されました。

 しかし、第二の終戦の詔勅については、敗戦を決断できるぐらいなら、開戦を回避できただろうとして、やはり天皇の責任を問う議論があります。これについて原田監督の『いちばん長い日』は、陛下による終戦の決断が、天皇単独で出来うるものでは到底なく、鈴木貫太郎首相や阿南陸軍大臣らの「タヌキの大芝居」を通じてようやく可能になったことを、原作に即してちゃんと描いています。というわけで、この二つの映画を見れば、天皇の戦争責任論が完全に粉砕されているのが分かるでしょう。

 『終戦のエンペラー』と同じく今回の『いちばん長い日』もまた、天皇主義者の僕としては納得の行く描き方をしていて、満足です。『終戦のエンペラー』もソクーロフ監督『太陽』(2005年)も日本映画ではありませんから、日本映画としては殆ど初めてじゃないでしょうか。これまで大東亜戦争における陛下の役割とは何だったのかについて、日本の映画は明確に描いて来なかったのです。昨年『終戦のエンペラー』を見たときも、僕はどうして日本がこれを描けないのかと憤慨していました。その意味で良かったです。

一方的な感情移入を排する原田流

 ちなみに僕は、原田眞人監督と『バウンス ko GALS』(1997年)のプロモーションでお会いし、一時期交流していたことがあります。彼の作品はたいてい見ていますか、原田監督の資質が最もよく表れているのが『狗神 INUGAMI』(2001年)という作品でしょうか。これを観たとき、この監督は本当にすごいと思いました。そして、『一番長い日』では、彼が『狗神』で見せた演出方法を完全に踏襲しているのです。一口で言えば“一方的な感情移入”を排除しようとするのです。

 『狗神』は狗神筋が存在する高知の山深い尾峰の村での悲劇を描きます。オカルト映画としては異色で、オカルト映画に見えて、実際オカルト現象は一切映し出されません。村では「壺の中に狗神が見えれば狗神筋」だとされ、「狗神が見える」と称する人たちが登場します。しかし、映像に登場する壺の中はただ真っ暗。「狗神が見える」と称する人たちの体験に相応する現実があるのかどうかには触れません。怪異を体験したと称する人が描かれても、怪異現象自体は決して描かれないのです。

 これはスタンリー・キューブリック監督の名作『シャイニング』(1980年)に通じる描き方です。『シャイニング』でも、主人公を含めた登場人物たちが経験する怪異な体験について、それに相応する現実があるかどうかはやはり描かれません。ラストシーンで主人公のジャック・ニコルソンが「All work and no Play makes Jack a dull boy」という文章を原稿用紙にただ打ち込み続けているという描写がありますが、それも悪魔憑きによるものなのかどうかについては描かれません。

 カール・グスタフ・ユングは、「神秘体験の存在は、神秘現象の存在を意味しない」という有名な言葉を残しました。神秘体験は催眠誘導などで簡単に引き起こせるので、そのことを知らないと、オウム信者がそうだったように「似非グル」に心酔しがちです。ことほどさように「体験と現実との間に必ずしもリンクがない」という発想は近代的です。そうした発想を原田監督はお持ちです。そうした彼の感性が『いちばん長い日』でも発揮されています。宮城反逆事件を起こした将校たちの描かれ方が典型です。

宮城反逆事件の将校らの描かれ方

 普通ならば「過激派」的な悪役イメージを配当されがちですが、原田監督の『いちばん長い日』は違う。ある種の観客には十分に共感できる描き方をしています。これは倫理的に正しい。国民の多くは二・二六事件の青年将校が好きで、『実録・阿部定』(1975年)や『愛のコリーダ』(1976年)など映画で何度も描かれています。宮城反逆事件の青年将校と二・二六の青年将校との間に、あるいは多くの国民が大好きな赤穂浪士との間に、さしたる違いはない。みな純粋無垢な反逆者です。そのことが何を意味するのでしょうか。

 かつては丸山眞男、最近は宗教学者の島薗進氏が仰るように、天皇制ファシズムを主導したのが統制派つまり軍エリートだったという説は間違いで、むしろ庶民の共感を背景としたノンエリート層の皇道派が主導的でした。天皇を支配の道具とみなしつつ国民には天皇を天孫と崇めさせる天皇機関説的なエリート層を大衆から見ると、イケ好かないインテリどもの天皇利用だと感じられたのです。そうした庶民の憤激を背景に、蓑田胸喜・国士舘専門学校教授のような連中が、東京帝国大学のリベラルな教授たちを追放していきます。

 東京裁判で、戦争責任は専らA級戦犯にあるとする「手打ち」になり、天皇と国民から戦争責任が免じられました。国民が悪くなかったという話は元々はネタなのに、やがてベタになりました。でも、庶民もヤバイ。というか、庶民がヤバイ。現に二・二六事件の青年将校を応援したがるメンタリティが、陸軍内部の反逆である宮城事件に直結する。原田監督はそれを意識するから、否定的にも肯定的にも描きません。狗神がいるのかいないのか言及しないのと同じように、何が本当に正しいのか言及しない。とても正しい演出です。

 前回『バケモノの子』を論じて、言語と言語以前という二項図式があることを言いました。(参考:宮台真司の『バケモノの子』評:言葉ならざる親子の関係を描く、細田守監督の慧眼)渋谷(人間界)は言語が優位な世界。澁天街(バケモノ界)は言語以前的なものが優位な世界。親子関係はそもそもは言語以前的な感情が中心を占めるべき関係じゃなかったのか──と。最近の映画には、言語と言語以前、理性と感情といった二項図式を使うものが目立ちます。『いちばん長い日』でも、天皇の佇まい、阿南陸軍相の佇まい、畑中少佐の佇まいなどが丹念に描かれます。そのことが僕たちに、ある投げかけをしています

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