『ヒトナー』は“新しい”ワケではない? 「本能」と「政治」が絡んだ葛藤の物語を解説

現在、「少年ジャンプ+」にて連載中の屋宜知宏の『ヒトナー』(集英社)が、コアな漫画ファンのあいだで話題になっている。 可愛い絵柄とタイトルだけを見てみれば、いわゆる「ケモナー」(=ケモノ系のキャラクターを好む人々の総称)をもじっただけの、ワン・アイデアのコメディ漫画かと思ってしまう人もいるかもしれないが、実際に同作を読んでみれば、異なる価値観をもった種族間の葛藤と共生を描いた、骨太なSF作品だということがわかるだろう。
地球の宇宙飛行士が舞い降りた最果ての星
物語の舞台は、地球から遠く離れた最果ての星。そこでは、自らを「ケモ」と称する獣人たちが文明を築いており、「ヒト」(人間)は、神話や昔話に出てくる架空の存在であった。
そんな「ケモ」の星に、あるとき、脱出ポッドに乗った本物の「ヒト」(宇宙飛行士のカナシマヒトシ)が舞い降りてきたのだったが……。
“異類”を前に戸惑う「ケモ」たち
物語の序盤――突然空から降ってきた、未知の存在であるヒトシを前に、「ケモ」たちのあいだで、政治的ないし本能的な葛藤が生じる。
たとえば、「ケモ」の社会を統括している「獣民連邦政府」の保守派の重鎮たちは、「ヒト」がもつ高い知能と技術を恐れ、もし「ヒト」が侵略戦争を仕掛けてきたら我々は勝てないのではないか、という不安感から、ヒトシを危険視し、排除しようとする(裁判にかけたり、連行したりする)。
しかし、その一方、当初からヒトシと接触していたトネリコ報道官(猫系獣人)や、ドリル博士(マンドリル系獣人)などは、彼をひとりの「隣人」として尊重し、相手を知るための努力をする。
そう。この、最初はヒトシの生態を科学的な興味(あるいは政治的な職務)から観察していたはずの「ケモ」たちが、彼の温かい心に触れ、やがて少しずつ距離を縮めていくプロセスこそが、この物語の作者が描こうとしている理想の「共生」の形なのではないだろうか。
革新的というよりは、むしろ王道の物語
通常、いわゆる「ファースト・コンタクトもの」と呼ばれるジャンルのSFでは、「人間の世界に未知の存在(宇宙人など)が接触してくる」というパターンの物語が多い。しかし、本作はその「逆」を描いており、そこが新しいのだ、と考えている向きもおられるかもしれない。
だが、『ガリバー旅行記』から『猿の惑星』(あるいは、藤子・F・不二雄『ミノタウロスの皿』)にいたるまで、進化した獣人たちの世界に紛れ込んだ人間(ヒト)を描いた物語はすでにいくつもあるわけで、じっさい、その点での新しさは本作にはない、ともいえる(強いていえば、人間ではなく“ケモノ視点”で物語が進んでいく点が新しいか)。
むしろ、本作がいま多くの漫画ファンの心に響いているというのは、それが革新的な作品だったからではなく、先に述べたような、「共生」をテーマにした、王道の物語だったからなのだと私は思う。
作中で繰り返し描かれている、異種族間に生じる不都合や猜疑心、知能差によるパワーバランスの崩壊などは、そのまま現代の(現実の)社会問題を風刺しているものにほかならない。
それでも、私たちは、安易な暴力に訴えるのではなく、同じ時代・同じ惑星に暮らす者として、可能な限り話し合い、歩み寄り(相互理解に努め)、「共生」していかねばならないだろう。
そのためには、まずは、トネリコ報道官たちのような、いまはまだ「ヒト」という異種族のすべてを理解することはできないが、ヒトシという目の前にいる「友達」のことだけは信じよう、という態度こそが、重要になってくるのではないだろうか。そこからひろがっていく、豊かな世界もあるのだ。
なお、『ヒトナー』は現在、単行本1巻が発売中。2巻は、来年(2027年)1月に刊行予定とのことである。

























