ノイズキャンセル技術は人類を滅ぼす? マンションの騒音問題から考えたこと
ライター・編集者の速水健朗が時事ネタ、本、映画、音楽について語る人気ポッドキャスト番組『速水健朗のこれはニュースではない』との連動企画として最新回の話題をコラムとしてお届け。
第43回は、マンションの騒音トラブルとノイズキャンセリング技術について。
高級マンションで騒音問題が起こる理由
ラッパーのYZERRが、マンションの騒音被害を訴えて話題になっていた。彼の住むマンションのどこかの部屋で、深夜になると連日のように大音量の音楽が流され、苦情を入れても解決しない。騒音を出しているのは、同じ音楽業界の住人ではないかとYZERRは疑っているという。発生源は特定されず、問題も解決しないまま、体調を崩した彼はツアーの中止に追い込まれた。
そのマンションの家賃相場は、月300万円ほどらしい。なぜ、そんな高級マンションで騒音問題が起きるのか。不思議に思うかもしれないが、むしろ高級マンションだからこそ問題がこじれるのである。『騒音トラブルの逆説的社会論』の著者である橋本典久によれば、相談事例の約7割は20階以上のフロアで起きているという。
なぜか。高級マンションでは、高い家賃が双方の期待を引き上げる。音を出す側は、これだけ高級なのだから防音もしっかりしているはずだと考える。子どもが床を走っても、下の階にはそれほど響かないと思っている。一方、聞かされる側は、これだけ高い金を払っているのに、なぜ他人の生活音に苦しまなければならないのかと考える。苦情を言う側は自分を被害者だと思い、言われた側は相手を寛容さのないクレーマーだと思う。騒音トラブルが解決しにくいのは、音量の調整が難しいからだけではない。自分が正しく、相手がおかしいという感情が、双方に残り続けるからだ。
そもそも騒音トラブルの根本にあるのは、寛容さを巡る問題なのだという。問題になる音の多くは、足音やドアの開閉、子どもの声といった生活音である。同じ音でも、顔を知っている相手が出すものと、正体のわからない隣人が出すものとでは、受け取り方が違う。かつてなら「子どもがうるさくしてすみません」のひと言で済み、聞く側にもお互いさまという感覚があった。
集合住宅が普及した1960〜70年代以降、壁や床を隔てて暮らしながら、隣人の顔も生活事情も知らない関係が広がった。1974年のピアノ騒音殺人事件は、生活音を巡る対立が事件にまで発展しうることを社会に印象づけた。その後、住宅の防音性能は格段によくなっていった。それにもかかわらず、同書によれば、騒音トラブルはむしろ深刻化しているのだという。
ノイズキャンセリング技術の発展
さて、マーク・ザッカーバーグをめぐる騒音問題が、昨年『ニューヨーク・タイムズ』の記事になった。場所はカリフォルニア州パロアルト。ザッカーバーグ夫妻は2011年以降、同じ地区で周辺の住宅を次々に買い足し、その一部を一体的な邸宅へ改修してきた。工事や工事車両を巡って、近隣住民から長年にわたり苦情が出ているという。
自宅の工事くらいで、と思うかもしれない。ところが、この騒音問題は10年以上に及んでいる。家を買い足すたびに解体や改修が始まり、近隣では工事の続く状態が常態化してきた。さすがに、それだけ長く続けば苦情も出るのは仕方がない。
ザッカーバーグは近隣住民に、ノイズキャンセリング・ヘッドホンを贈ったという。いかにも彼らしいエピソードである。映画『ソーシャル・ネットワーク』も、基本的には、彼が周囲の人間を次々に怒らせる話だった。そのザッカーバーグが騒音トラブルへの対策として選んだのは、工事を止めることでも、近隣との関係を修復することでもなく、聞く側にヘッドホンを渡すことだった。
うるさいのなら、音を出す側ではなく、受け取る側で消せばいい。乱暴な話ではあるが、単なる笑い話とも言い切れない。ノイズキャンセリング技術は、この10年ほどで大きく進歩した。騒音は発生源で減らすしかないものではなく、聞く人の周囲だけで消せるものになった。人類にとって、かなり大きな一歩ではないだろうか。
僕を含め、すでにノイズキャンセリング・ヘッドホンなしでは生活しづらいという人も多いはずだ。僕の場合、主に電車に乗るときと、カフェで仕事をするときに使っている。ノイズキャンセリングとは、周囲の音をマイクで拾い、それと反対の波形を持つ音を発生させ、互いに打ち消す技術である。原理自体は古いが、デジタル処理の性能向上とワイヤレスイヤホンの普及によって、ここ5〜10年で値段も下がり、日常的な道具になった。シリコン製のイヤーチップが一般化し、外の音を物理的に遮りやすくなったことも大きい。
この技術がさらに進めば、人はつねにイヤホンを着けて生活するようになるかもしれない。騒がしい居酒屋でも、同じテーブルにいる人の声だけを拾って会話する。違う言語を使う相手の言葉を、わずかな時間差で翻訳する。周囲の雑音は消し、必要な声だけを耳に届ける。こうした機能は最新のAirPodsで事実上可能になっている。あとは、それらを日常的に使う生活が定着するかどうかである。
そして、その次に起きようとしているのが、ヘッドホンを着けなくても、特定の場所だけ音を消したり、必要な場所だけに音を届けたりする技術の普及だろう。コンサート会場では音を客席へ集中させ、周辺への漏れを減らす。駅や空港、商業施設では、必要な案内は残しながら、不快なノイズだけを抑える。最初は違和感があってもすぐになれる。エアコンだって、普及した当初(1920年代)は、批判もかもしたが、今では、それがない場所のほうに違和感を覚える。
さらには自動車でも、運転席、助手席、後部座席にそれぞれ別の音を届ける技術の実用化が進んでいる。同じ車に乗りながら、運転手はラジオを聴き、助手席の人は別の音楽を聴く。ヘッドホンを着けなくても、隣の席の音はほとんど聞こえない。
けんかのきっかけは減るかもしれないが
これは我が家にとっても重要な技術である。夫婦げんかの多くが、車内のBGMから始まってきたからだ。あるとき、僕が斉藤由貴を聴いていると、妻がボリュームを極端に下げた。僕はカチンときて、その後1時間ほど口をきかなかった。次の機会には報復を行った。妻が聴いていたサカナクションにたいして、「頭が痛くなるからやめてくれ」と止めようとした。当然、言い争いになった。
座席ごとに音を分けられれば、僕は斉藤由貴を聴き、妻はサカナクションを聴けばいい。めでたし、めでたし。いや、本当にそうだろうか。
そもそも、このけんかには別の火種があった。たまたま火がついたのが斉藤由貴だっただけである。人間同士が同じ空間を共有するとは、多少の不快さを互いに引き受けることでもあった。斉藤由貴の音楽を不快だと思う人間を許せるかどうかは別として、相手の声を聞き、好きでもない音楽を聞き、それでも一緒にいることも、人間関係の一部なのだ。互いのBGMをミュートできれば、けんかのきっかけは減るかもしれない。しかし、相手と折り合いをつける機会も同時に失われる。
ノイズキャンセリングは魅力的なテクノロジーである。嫌な音や都合の悪い音だけを消してくれる。騒音トラブルの多くも、技術的には解決できるようになるかもしれない。その一方で、かなり危険なものでもある。嫌な音をいつでも消せる生活に慣れるほど、人はわずかな物音にも耐えられなくなる可能性があるからだ。これはマンションの騒音トラブルが寛容さと結びついているのと同じである。
人類が自ら生み出したテクノロジーによって絶滅する可能性はいくつも語られてきた。核兵器や、人間を超える知能を持つAI。しかし実際には、そんな恐ろしい技術ではなく、もっとたわいのない、便利で、誰も警戒していない技術によって滅びるという話のほうが、むしろありそうな気がする。
人類はノイズキャンセリング・テクノロジーの普及によって、あっさり絶滅してしまうのではないか。斉藤由貴とサカナクションを互いにミュートした結果、対立だけが残り、やがて戦争が始まる。そんな、あまりにもくだらない絶滅である。