【連載】柳澤田実 ポップカルチャーと「聖なる価値」 第六回 ブラック・シュールレアリズム:現実が“超現実=不条理”でしかない時
5. ブラック・シュールレアリズムの飽くなき探求者:ドナルド・グローヴァー
ピールとともに21世紀のアフロ・シュールレアリズムを牽引してきたグローヴァーは、昨年2025年に活動を終えたチャイルディッシュ・ガンビーノ名義の音楽プロジェクトも含め、超現実主義が持つ可能性を果敢に押し広げ続けてきた。彼が手がけたドラマは全て人種問題を中心とした社会風刺とエンタメ性を両立することに成功しているが、その中でも一作目のドラマ『アトランタ』は、あまりに先駆的過ぎて過小評価されていると言わざるを得ないアフロ・シュールレアリズムの傑作である。
「ラッパーたちと『ツインピークス』を作りたかっただけ」というグローヴァーの言葉にあるように、本作の主人公の四人、MCのペーパーボーイ、その従兄弟でマネージャーのアーン、友人のダリウス、アーンの元彼女のヴァンは、日々の生活のなかで期せずしてデヴィッド・リンチ的な悪夢=“超現実”に足を踏み入れることになる。その“超現実”は、ドレイクのいないドレイク主催の年越しパーティーだったり(「虚栄の館」)、マイケル・ジャクソンを思わせる白い顔の黒人アーティストが隠居する館だったり(「テディ・パーキンス」)、黒人のヒップホップを愛聴する白人至上主義の学生サークルだったり(「パジャマ・ジャム」)、ディアンジェロにどうしても会いたい人のための殺風景な待合室だったりする(「Born 2 Die」)。こうしたシュールな舞台で、黒人にとっての“現実”が描かれるのだが、主人公たちが常用しているウィード(大麻)の酩酊しているような空気感やゆるいユーモアが、“現実”の過酷さよりも、不条理を生き抜く主人公たちの繊細な心の機微のほうを際立たせている。
グローヴァーの観察眼は鋭く、基本的に一話で完結する『アトランタ』の全4シーズン41エピソードには、黒人と白人の関係(そこに時折さらに周縁的立場のアジア系がからむ)に関し、考えうる限りの主題が複雑に織り込まれている。その白眉とも言えるシーズン3が扱う内容は、差別される黒人の“現実”に留まらない。白人が罪悪感解消のために行うチャリティーに積極的に利用される黒人の “現実”(「ホワイト・ファッション」)、黒人ベビーシッターに育児をまかせきりにした結果、子供がすっかり黒人文化に染まっている白人富裕層の“現実”(「骨までトリニダード人」)、さらには「白人に近い」ことを理由に黒人によって差別される白人と黒人の混血の“現実”(「リッチ・ウィガ、プア・ウィガ」)など、より細やかな視点の設定を試みている。シーズン3全体のテーマは、主人公アーンの白人のドッペルゲンガー(この設定はピールの『アス』とも重なり合う)によって冒頭のホラー映画仕立ての場面でも語られている。
「人種は存在しない。何の科学的根拠もないんだ。人は白人になるが、これは“社会的”にだ。いつどこに居合わせたかで決まる。(中略)血と金で白人になるのは昔から変わらない。だが白人になることの弊害は目を塞がれることだ。呪われた人種は黒人で自分は違うと信じている。だが結局自分も彼らと同じ奴隷なんだ。」(字幕に基づき、一部筆者により変更)
このセリフは、ピールの『NOPE』やクーグラーの『罪人たち』も主題化した、“白人”であることの流動性や白人至上主義への従属について、(TVドラマとは思えないほど正確に)社会構築主義の立場から言語化したものだと言えるだろう。
『アトランタ』は、更にその先の問題、虐げられた者の報復、虐げた者の償いについても問いかける。奴隷制に対する「賠償(reparation)」をテーマにした「ザ・ビッグ・ペイバック」は、穏健なリベラル白人男性マーシャルが、ある日突然、先祖が奴隷主である事実を突きつけられ、奴隷の子孫だという黒人女性から賠償を請求される物語だ。先祖が奴隷主だったという事実は社会的差別を生み、彼は職を失い、娘は「人種差別者(レイシスト)」として学校でいじめられ、妻には離婚されてしまう。
ドラマの終盤では、レストランのウェイターになった彼が、給与から15%を賠償用に天引きしてくれと店主に話している。続く印象的なラストシーンでは、溌剌と給仕をするマーシャルの姿が映し出される。彼の姿からレストランの室内全体が引きで映し出されると、全てのテーブルで有色人種が食事をし、白人が給仕をしている光景が示される。ここで流れるBGMはピールの『アス』へのオマージュの意味もこめられたミニー・リパートンの「Les Fleurs」だ。「新しい時が生まれる合図(At the sign that a new time is born)」という晴れやかなこの曲の歌詞は、『アス』のラストシーンにおいても不気味に響いたが、「ザ・ビッグ・ペイバック」でも同様に、様々な問いと整理しがたい感情を喚起する。差別に対する何らかの“報い”は、差別に苦しんだ者を本当に救うのだろうか? 償いを求め続けることで生まれる新たな対立構造は、果たして差別を受ける者の本当に望むことなのだろうか?
6.人種差別という大きな物語に抗う『アトランタ』の先見性
クーグラーの『罪人たち』は、『ワン・バトル・アフター・アナザー』に比して、世界の複雑さをより誠実に描くことに徹していたことは間違いがない。しかし、最終的に悪への復讐、“報い”で締めくくられる点で両者は酷似していた。2026年度のアカデミー賞は、共に白人至上主義者たちの死をカタルシスとして配置した両作品に対し、惜しみない称賛を浴びせた。このアカデミー賞の光景に、2024年以降のアメリカのエンタメ業界の(リベラルな夢を見続けたい人の)視野狭窄を見出さずにはいられないのは、2022年に完結した『アトランタ』で、人種差別問題に関し報復や復讐が解決をもたらさないことが十分に深められていたからである。世界に複雑に組み込まれた暴力を、特定の集団の撲滅によって排除することはできない。白人至上主義者を撃ち殺すことは、現実においては事態を悪化させるだけだろう。
復讐もまた、複雑な問題の単純化だと言えるのかもしれない。この問題の単純化が、虐げられ、傷ついた者の救済にはなり得ないことを『アトランタ』シーズン4の「The Homeliest Little Horse」は、複雑なプロットを用い、丁寧に描写している。このエピソードで主人公のアーンは、医者に勧められて渋々セラピーに通い始めるが、このセラピーセッションの中で、このドラマの当初からの設定である彼のプリンストン大学中退の理由が明らかになる。
アーンは以下のような過去をセラピストに語る。彼はプリンストン大学の学寮で寮監助手として全室の鍵を持っていた。ある日、就職の面接のためのスーツを親友のサシャに預かってもらう。面接時間が迫る中、サシャが不在であることがわかったアーンは、スーツを取るために寮監助手の鍵を使ってサシャの部屋に入った。ところがサシャは、彼の侵入を犯罪行為とみなして一方的に糾弾し、孤立したアーンは大学を中退せざるを得なくなった。サシャは白人女性だった。アーンは涙ながらに「傷ついた(Hurts)」と語り、「なぜ?」というセラピストの問いかけに対し「彼女を友達だと思っていたから」と答える。その上でアーンは、この時のサシャやかばってくれなかった大学関係者への憎しみ、そして彼らを見返したいという気持ちが、自分を頑張らせてくれたと意味付けし、当初は断ろうとしていたプリンストン大学からの講演の依頼を受けることを決意する。
しかし、話はこれで終わらない。家族同行でプリンストン大学に出張することにしたアーンは、空港スタッフの白人女性のリサ・マンに難癖をつけられ、飛行機の搭乗を阻まれてしまう。アーンはこの出来事をセラピストに告白し、あまりの怒りに旅行をキャンセルしたと語り、セラピストの優しい反対を押し切ってセラピーをその日限りで中断する。セラピーをやめたアーンは、時間とお金をかけてわざわざ俳優たちを雇ってリサ・マンを騙し、彼女の自尊心を傷つけることで復讐を成し遂げる。このプロジェクトの成功を祝うパーティーに招かれたペーパーボーイとダリウスは、事情を知ると呆れて帰ってしまう。取り残されたアーンはこの期に及んでようやく我にかえり、セラピー継続の必要性を自覚するのだった。
視聴率こそ低いものの批評家たちから絶賛されたこのエピソードは、アーンの “痛み”が、人種差別という社会的なレベルと重なり合いながらも、実はむしろ愛する人への信頼を裏切られるという非常にパーソナルなレベルで生じていること、だからこそ容易に乗り越えがたい苦しみであることを見事に浮かび上がらせている。このエピソードにはアーンだけではなく、リサ・マンという絵本作家を目指す女性の不遇やその反動としての自分より弱い者への高圧的な態度などが細やかに描写されている。ここで起きている種々の暴力を“人種差別”という大きな物語に還元することは不可能ではないのだが(ドラマはその可能性もきちんと残している)、それは同時に出来事の個別性を見えなくすることであり、結果として個人の“痛み”を置き去りにすることに繋がる。白人であるリサを “ナチス女”(実際そういう罵倒がドラマにも出てくる)として打ちのめすことは、決してアーンの傷を癒さない。
7.“白人”の単純な物語とマイノリティのシュールレアリズム
歴史上、社会が不安定になる時には、必ず単純な敵味方関係に基づく陰謀論や終末論が流行する。私たちが生きているコロナ禍以降の2020年代とは、まさにそのような時代だ。陰謀論や終末論に表出しているのは、世界の複雑さを拒み、自分の不安を世界に投影し、単純化する態度だと言えるだろう。その最も顕著な例として、現在のイラン戦争を支援する米国の白人福音派キリスト教徒の終末論を挙げることができる。信仰を固持したい彼らもまた、リベラルで合理主義的なエリート層からの長年の蔑視によって傷ついているとも言えるのだが、自分たちの“痛み”を、客観的に自覚することなく、単純な物語=終末論への熱狂によって隠蔽しているように見える。彼らが支持する戦争のなかで物理的に傷つく人々が増え続ける一方で、個々の“痛み”は単純な物語の陰に取り残されている。結果、この政情不安を利用して私腹を肥やす者以外、誰も救われない不毛な状況が生じているように思われてならない。
複雑な世界を複雑なままに理解し、そこで生き延びようとする者たちの“痛み”を捉えることができるのは、世界の不条理に圧倒される側の視点を持つ者だけだ。それは黒人の“痛み”だけでなく準白人のアイリッシュや白人の“痛み”を描くことに成功した『罪人たち』や『アトランタ』が示す通りである。今日“白人”(これは決して人種的な意味だけではない)が投影する単純な物語によって世界がますます混迷を極めるなか、マイノリティが実践するシュールレアリズム(『罪人たち』においては音楽だったがその実践の幅はもっと広いはずだ)こそが、世界観の単純化という“白人”化の誘惑に抗う最も確かな手段であることは間違いがない。