【連載】柳澤田実 ポップカルチャーと「聖なる価値」 第六回 ブラック・シュールレアリズム:現実が“超現実=不条理”でしかない時
1.「革命」の失敗を物語った2025年を象徴する二作品
第98回アカデミー賞は、13部門にノミネートされたポール・トーマス・アンダーソン監督の『ワン・バトル・アフター・アナザー』と最多16部門にノミネートされたライアン・クーグラー監督の『罪人たち』の二作品が席巻した。この両作品のテーマは実はよく似ている。それは自由=解放を志した者たちの夢と挫折だと言えるだろう。『ワン・バトル・アフター・アナザー』は極左の政治活動家を引退した白人中年男性のボブが、黒人の革命家仲間との間にもうけた娘を白人至上主義者の軍人に誘拐され、救出を目指す物語である。対する『罪人たち』は、1930年代のミシシッピーデルタ地域を舞台に、双子の黒人男性、スタックとスモークが自分たちのためのジューク・ジョイント(酒と音楽と賭博を提供する憩いの場)を開業するが、人種差別システムに阻まれる状況をホラー仕立てで表現した作品だ。どちらも最終的に対峙する敵として想定されているのは白人至上主義者である。
こうした作品が2025年に制作され、観客に絶賛され、アカデミー賞で高く評価されるという流れには、現トランプ政権への反発を避けがたく感じる。けれども他方で、この二つの作品を、現在進行形で私たちが経験している歴史的な転換点、つまり戦後のリベラルな価値観や世界秩序が壊れていく時期への二種類の反応として観ることは、重要な洞察を与えてくれるようにも思う。それまで自分たちを規定してきたパラダイムが崩壊し、夢が砕かれる時、人はどのような世界を描きうるのか?『ワン・バトル・アフター・アナザー』は複雑な世界を単純化し、『罪人たち』は世界を一見する以上に複雑なものとして描く方法を採ったように見える。そして、アカデミーが作品賞および監督賞を与えたのは『ワン・バトル・アフター・アナザー』の方だった。
2.現実に近づいた分、単純さが際立った『ワン・バトル・アフター・アナザー』
『ワン・バトル・アフター・アナザー』は、尺こそ長いものの、とてもわかりやすい善悪の図式に基づいている。アンダーソンが『マグノリア』に代表されるような複雑な構造の作品を得意にしていることを考えても、この単純化は明確な決断に基づくものだったのではないか。本作が、複雑この上ないトマス・ピンチョンの『ヴァインランド』を参照していることも、本作が殊更に単純に見える一因であるのは間違いがない。スピルバーグとの対談で語っているように、愛着のある『ヴァインランド』の翻案が難しかったアンダーソンは、「心に響いた部分を抜き取って、ピンチョンの祝福のもと全てのアイディアを再構成」することにし、「翻案」ではなく「インスパイアされた」というスタンスを取ることにしたのだそうだ。結果、中心となる4人の登場人物(主人公ボブ、娘ウィラ、元妻パーフィディア、宿敵ロックジョー)、過去の敵による娘の誘拐という基本的なプロット、そして白人至上主義の秘密結社という風刺的設定だけが採用された。
これらの変更に加えて、時代設定を1980年代から現代に変え、またラストシーンを勧善懲悪にすることで、『ワン・バトル・アフター・アナザー』は『ヴァインランド』とは比べものにならないほど、わかりやすいドラマになっている(※1)。『ヴァインランド』は、1960年代のヒッピーの末路を、1980年代のレーガン政権時代を舞台に風刺した、サイケデリックな絵巻物のような文学作品だ。左派と右派両者をユーモラスかつ辛辣に描いた本作は、あらゆる事象に均等な距離感を保っているため、キャラクター個々人に対する感情移入の余地はほとんどない。一方『ワン・バトル・アフター・アナザー』では、登場人物は個性豊かで人間臭く、実際に黒人の血を引く女性と家庭を築いたアンダーソン自身の自己投影も強く感じられる。『ヴァインランド』のラストでは、誘拐された娘は、宿敵の死によって解放されるものの、カリフォルニアの荒野に取り残され、父と再会することもない。対する『ワン・バトル・アフター・アナザー』は、成長した娘と主人公である父との再会、そして手紙を通じた母も含め、家族の和解でエモーショナルに締めくくられ、失敗した革命は娘によって継続されることが示唆される。
『ヴァインランド』のポストモダン的な特徴、つまり“中心の不在”や“結末の曖昧さ”といった特徴を取り除いた『ワン・バトル・アフター・アナザー』は、一見リアリズムに接近している。移民を強制送還する軍人たち、移民を匿う左派の活動家たちは、現在の米国を思うと現実味がある。しかしながら本作は、設定が“現実”に近いからこそ、私たちが日々目撃する“現実”の方が、ずっと過酷で複雑であることに気づかせもする。例えば明らかにお笑い要素として挿入されている白人至上主義者の秘密結社「クリスマス・アドベンチャラー・クラブ」があまり笑えないのは、2025年以降の私たちが、現実の極右や富裕層の秘密結社のほうがずっとグロテスクであることを知ってしまっているからだ。この半年でエプスタイン文書が明かしてきた“現実”は、この作品に登場する単細胞な極右以上に不気味である。
混迷極まる“現実”を前に、単純で美しい虚構を選んだアンダーソン。この態度に共感できる人は、圧倒的な映像美やアクションシーン満載の『ワン・バトル・アフター・アナザー』を心から愛することができるのだろう。他方で、複雑な“現実”に対峙せざるを得ない者(この言葉も単純すぎて好きではないがいわゆる「マイノリティ」)は、本作の“嘘っぽさ”に戸惑いを感じずにはいられないように思う(※2)。
(※1) より詳細な比較は以下の論考を参照のこと。佐藤氏は両者の共通点を積極的に見出す解釈を行なっている。佐藤良明「『ワン・バトル・アナザー』と『ヴァインランド』――分断をすり抜けるピンチョンに共鳴するアンダーソン」『新潮』4月号、2026年、pp.212-221。
(※2) 本作を映画として高く評価するスラヴォイ・ジジェクも、妻パーフィディアに代表される女性キャラクターの現実味のなさを指摘している。Slavoj Žižek, “The family values of the radical Left Two films display stolen virtue,” Unherd, Oct 20 2025(https://unherd.com/2025/10/the-family-values-of-the-radical-left/)
3.複雑にならざるを得ないアフリカ系アメリカ人の世界:ライアン・クーグラー
吸血鬼ホラー映画の形式を取る『罪人たち』は娯楽映画だが、米国社会で複雑に構造化された人種差別を描いている。監督のライアン・クーグラーは、複雑なことを複雑なままにエンタメ作品にすることにおいて、驚くべき才能を発揮してきた。デビュー作の『フルートベール駅で』、『クリード』、そして『ブラック・パンサー』二作品を経て、今回の『罪人たち』は長編監督作品五作目にあたる。その中でもリアリズムを離れた『ブラック・パンサー』二作品と今回の『罪人たち』は、オリジナリティにおいて他の追随を許さない。これら三作品の中心テーマは共通して白人至上主義および植民地主義だ。しかし、単に敵としての白人至上主義者を打倒する物語ではなく、むしろこの差別的なシステムのなかで、差別される者同士の深刻な対立と暴力が生まれてしまう現象のほうに光を当てている。革命の失敗は、白人至上主義者からの直接の攻撃と同時に、白人至上主義や植民地主義に取り込まれてしまう仲間の被差別者によってもたらされるのだ。
『ブラック・パンサー』は、アフリカ大陸で一度も欧米に植民地化されたことのないワカンダの国王、ティ・チャラと彼の従兄弟キルモンガーの物語である。ワカンダは、欧米の搾取を逃れるために、ヴィブラニウムという貴重な鉱物と高度な科学技術を持ちながら、その事実を隠し、外部には発展途上国のふりをして事実上鎖国している。平和主義を父王から継承したティ・チャラは当初、王位を自分から奪い、ヴィブラニウムを軍事利用することで世界中の差別される者たちの蜂起を企てるキルモンガーを敵視する。しかし、父王が、キルモンガーと同様の思想を持っていた彼の父、つまり自分の叔父を殺し、息子のキルモンガーを捨てたことを知り、ティ・チャラは、ワカンダが自国の平和を維持するために苦しむ同胞を見捨ててきた事実に初めて気づく。ティ・チャラとキルモンガーの対立には、黒人コミュニティ内の富裕層と貧困層の分断が重ね合わされている。白人優位の社会で自分たちが生き残るために、一方は無意識的に事なかれ主義を選び、他方は暴力的な抵抗を企てる者となっている。ティ・チャラはキルモンガーを倒し、王に返り咲いた後、キルモンガーの遺志を継ぎ、ワカンダの鎖国を解き、他国の難民や困窮者への救済に乗り出す。真の革命のために、差別される者同士の対立をなくし、また搾取してきた欧米諸国とも積極的に関係構築をしようという、この上なく明るくポジティブな結末を迎えるこの作品は、コロナ禍に入る直前、2018年に公開された。
その後、世界中がコロナ禍に襲われた。ブラック・ライブズ・マターが起き、その最中にティ・チャラを演じたチャドウィック・ボーズマンは早逝した。ボーズマンの死によって引退も考えたというクーグラーが2021年に制作した続編『ワカンダ・フォーエバー』(2022年)では再び、アフリカ系を代表するワカンダとヒスパニック系を代表する水中の国、タロカンの対決という形で、差別される者同士の葛藤が主題化された。タロカンを率いるネイモアは、“白人植民地主義者=地上の人々”を憎み、防衛のための先制攻撃しかないと、ワカンダに協力か戦争かの二者択一をつきつける。ワカンダは応戦し、ティ・チャラの妹シュリはネイモアを屈服させるが、「復讐は自分たちを滅ぼす」という母の言葉を思い出し、彼を殺さず、和解する道を選ぶ。
差別される者の間で生じる暴力を見つめ続けてきたクーグラーは、『罪人たち』でこの問題をさらに深めている。彼は本作で、白人至上主義という暴力への加担を“吸血鬼”で表象し、差別される者たちの連帯が内部から壊されていく様をホラー映画にした。双子のスモークとスタックが同胞のために作った酒場=ジューク・ジョイントは、アイルランド系の吸血鬼レミックに襲われ、たった一夜で崩壊する。吸血鬼としてアイルランド移民が選ばれたのは、彼らが移住当初は被差別民であり白人として認められていなかったが、白人に同化し、特にKKKなどの黒人差別秘密結社に加担することで白人としての地位や特権を認められていった歴史的経緯があるからだ(※3)。つまりこの映画で吸血鬼になることとは、かつて虐げられた者が虐げる側になることを意味し、吸血は搾取や盗用を意味すると解される(「お前の物語が欲しい、お前の歌が欲しい」というセリフに表れている)。
最初に吸血鬼になるのは白人と黒人の混血であるメアリーだ。アジア系のボー・チョーも早々に吸血鬼になるが、こうした人々は機会に応じて白人側に立ったり、黒人側に立ったりする境界的な存在として描かれている。吸血鬼レミックたちは“白人である”という理由でジューク・ジョイントに入店が許されなかったが、「愛と友情」、「平和」を訴えてまず境界的な人々に近づき、スモークとスタックが作った被差別民のアジール(避難所)を内部から壊していく。
この「愛と友情」、また吸血鬼になってしまった友人コーンブレッドが語る「ただみんなで仲良くすれば良い」と言った言葉は、しばしば差別を乗り越えるために語られる空疎な理念だ。従って執拗にこうした言葉が吸血鬼によって語られるのは、多くの美しい理念が、搾取のシステムを根本的に打開しえないことを示唆しているようにも見える。同様のことは、この作品内のキリスト教の位置付けにも該当する。双子に並んで重要な登場人物であるサミーは、プロテスタント教会の牧師の息子だが、“悪魔の音楽”であるブルースを愛する彼を“罪人”呼ばわりする高圧的な父に辟易し、家を出ることを決意している。キリスト教が必ずしも差別される者を救わないことを決定的に示すのは、終盤でサミーが、レミックによって殺されることを覚悟し「主の祈り」を唱えるシーンだ。多くのホラー映画で悪魔はキリスト教の祈りを恐れるが、レミックは「主の祈り」を共に唱和し始め、サミーを愕然とさせる。レミックはしみじみ「自分たちの民族もまた、その言葉を飲み込むことを強いられたのだ」とサミーに語る。アイルランド人の祖先ケルト人のキリスト教化が示唆されるこの場面は、キリスト教もまた白人至上主義の暴力に加担してきた歴史的事実を告げる。
『罪人たち』は確かにパワフルな音楽に満ちた娯楽作品だが、同時に救いのない悲劇でもある。吸血鬼レミックが最後の対決の前に告げるのは、自分たちが来なければ、結局KKKによってジューク・ジョイントにいる黒人たちは皆殺しだったという事実だ。白人至上主義の暴力が物理的にも心理的にも侵襲する社会で(あらゆる場面で示唆される差別の痕跡については多くの解説動画がある)、差別される者が吸血鬼=“白人至上主義への順応者”にならない方法として、この作品は二つの選択肢しか提示しない。祖先の魂(グリオやフィリ)が息づく音楽を奏でるか、さもなければ死である。
(※3) Noel Ignatiev, How the Irish Became White, Routledge, 1995.
4.不条理な現実こそホラー:ジョーダン・ピール
クーグラーは『罪人たち』が吸血鬼ホラーになったのは、この物語が持つ“痛み”を表現するために、また音楽の持つ超自然性を表現するために自然なことだったと語っている。虐げられる者の恐怖や痛みを表現するためにホラーの手法を用いる作品は、ここ数年で非常に増えた(『アンテベラム』(2020年)、『ヒズ・ハウス』(2020年)、例えばThe Weekndのコンセプトでもホラーは重要な基層低音になっている)。元々ホラーは、マイノリティの視点に立った社会風刺的性格が強いジャンルだったが(例えば『キャンディマン』(1992年)、ロメロの『ゾンビ』シリーズ等)、実際にマイノリティーの映画作家たちが “自分たちに世界がどう見えているか”を描くためにこのジャンルを自覚的に用いるようになったのは21世紀に入ってからである。
2010年代にこの流れを決定づけたのはジョーダン・ピール監督の『ゲットアウト』(2017年)と、ほぼ同時期に制作、放映されたドナルド・グローヴァーによるドラマ『アトランタ』(2016、2018、2022年)だ。黒人の現実があまりに不条理で“超現実的”な悪夢のようであることを表現する彼らの表現手法は、アフロ・シュールレアリズム/ブラック・シュールレアリズムとも呼ばれる。ブラック・カルチャー(文学、芸術、音楽)が生み出した代表的な表現手法には、もう一つ、あり得たはずの差別なき未来を描くアフロ・フューチャリズムがあり、クーグラーの『ブラック・パンサー』はこのジャンルを広く知らしめた作品でもあった。アフロ・シュールレアリズムもまた、20世紀の文学やアートで積み重ねられてきた手法で、アフロ・フューチャリズムが仮想の“未来”を描くのに対し、アフロ・シュールレアリズムは人種差別に満ちた“現実”の異様さを際立たせる点に特徴がある。不条理な“現実”にフォーカスする点で、アフロ・シュールレアリズムは、夢や無意識、あるいは原始的な文化に自由の可能性を見出した1920年代の欧州のシュールレアリズムとも一線を画している。
例えば『ゲット・アウト』は、若い黒人男性のクリスが、白人のガールフレンドの実家に招かれるドラマだ。後半こそSF的で非現実的なドラマ展開を見せるものの、前半は、黒人の若い男性が自称「リベラル」の白人富裕層に好奇の眼差しを向けられる体験のリアルな描写に過ぎない。いわば黒人にとっての “現実”が高い解像度で描かれているだけなのだ。彼女の両親は、自分たちを人種差別しない(「オバマに第3期目があったら投票していた」)と思いこんでいる善意に満ちたインテリ白人。その友人には “黒人はクールだ”と思っているアート好きの白人たちがいる。彼らは、黒人である主人公の肉体に憧れ、様々なステレオタイプを押し付け、その才能に執着する。その様は確かにホラーであると同時に滑稽で、それが差別であるという自覚がないがゆえに救いがない。
二作目『アス』は、アメリカ社会の成功者(富裕層)の幸福が、自分と大差のない敗者(貧困層、奴隷)の上に成り立っているという現実を、ドッペルゲンガー現象を用いて描いていた。三作目『NOPE』では、全てを「見せ物」として消費する“白人的な眼差し”が主題化されている。本作の作りは『罪人たち』に似ていて、差別される者が差別構造(=システム)に従属しそうになる誘惑にいかに耐えるかが問われている。ハリウッドのエンタメ業界の周縁を舞台にすることで、『NOPE』はマイノリティである黒人やアジア系が、チンパンジーのような動物と並列に“白人的な眼差し”の消費対象になり、不要になると闇に葬られてきた“現実”を丁寧に提示する。物語の中心となる飛行物体は“白人的な眼差し”の象徴として解釈できる。「見る」誘惑に乗ることは“白人的な眼差し”に取り込まれることを意味する。だからこそ黒人の主人公OJと妹のエムは「見る」ことなく、つまり白人に同化せず飛行物体を撮影することで、“白人的な眼差し”に消費され続ける自分たちの主体性を奪還しようとしているようにも見える。アジア系のジュープが飛行物体に食べられて(=取り込まれて)しまうのは、白人でも黒人でもないアジア系は白人至上主義に従属しがちだという“モデルマイノリティ問題”を示唆している。