計250冊のメガ企画! 水声社《知の革命家たち》シリーズに込められた情熱「やりたいことをやればいい」
水声社の入門書シリーズ、《知の革命家たち》の刊行が1月から始まり、読書界の注目を集めている。なにしろ最終的には250冊程度の刊行を予定しているという巨大企画なのである。
20世紀の欧米で意義ある仕事をした文筆家や芸術家を1冊につきひとりずつ紹介するもので、第1回の配本は、『ジル・ドゥルーズ』(哲学者)、『カールハインツ・シュトックハウゼン』(作曲家)、『ガブリエル・ガルシア・マルケス』(小説家)、『ピエール・ブルデュー』(社会学者)、『ルネ・シャール』(詩人)。ここからもわかるとおり、さまざまなジャンルを横断したシリーズにもなっている。3月下旬時点で、第3回配本分までが刊行された。
水声社といえば、硬派で上質な専門書・訳書を多く出す、知るひとぞ知る版元というイメージもある。それがなぜこのシリーズの開始に踏み切ったのか。
シリーズ企画者でもあるという社主の鈴木宏氏と、編集・制作の実務の責任者、副編集長の関根慶氏に聞いた。
創業以来の理念の具現化
――《知の革命家たち》シリーズは、鈴木さんが長年温めてきた肝いり企画だとうかがいました。企画はいつごろ、どのようなきっかけで構想したのですか。
鈴木宏:具体的に考え出したのは7~8年前だったと思います。ただ、1981年に書肆風の薔薇を創業(91年に水声社に改名)した当初から欧米や日本の文学・芸術・人文科学の最新の動向を紹介することを目的にしていましたし、そのなかで「20世紀の知の《革命》の全体を見渡すシリーズを作りたい」という思いも当初からありました。とはいえ創業当初はスタッフもごく少数で、やりたいことをすべて実現する力は到底なかった。そこから少しずつ会社が大きくなり、スタッフや売上といったリソースの面でもようやく実現できるかもしれないと考えるようになり、7~8年前から本格的に企画しはじめたような次第です。
このシリーズは、4~5年にわたって毎月5点ほど刊行して計250巻ほど出すというもので、書き下ろしを原則にしています。原稿依頼は数年前から行なっており、原稿の上がり具合も、ようやくなんとかとぎれることなく毎月刊行できそうなところまできましたので、ようやく今年の1月からスタートすることができたわけです。
――創業以来の理念の具現化であると。編集スタッフの視点からも、シリーズ《知の革命家たち》の特徴を教えてもらってもよいでしょうか。
関根慶:まず、文学・芸術・人文科学といったジャンルを横断したシリーズであることが大きな特徴です。次に、すべての巻で構成をある程度統一しようとしていることも特徴だと思います。第一部が短い評伝、第二部は研究や批評で、その人物の仕事に関する最新の研究動向を踏まえたうえでの掘り下げた紹介というかたちになっています。もちろん入門書のシリーズなので、専門家ではない読者が読んで、その人物の全体像をつかむことができるものだという前提は大切にしつつ、同時にレベルの高い議論に触れられるようにもなっています。
――なぜ文学・芸術・人文科学を横断するというかたちをとったのでしょう。
鈴木:20世紀を考えるときに、そうした人文科学の全分野が深いレベルで影響しあっていたことが重要だと思うからです。たとえば、シュルレアリスム芸術と精神分析のあいだには切っても切り離せない関係がありますよね。ほかにもある時期以降のフランスでは、どこまでが文学でどこからが哲学なのかわからないようなテクストが大きな影響力を持ちました。あるいは、いわゆる「構造主義」からポスト構造主義への動きが他の全分野に決定的な影響を与えたという風にも言えるかもしれません。
水声社社主・鈴木宏氏の来歴と20世紀の「知の革命」
――計250巻という規模の入門書シリーズは異色で、刊行開始のニュースは読書界の度肝を抜きました。ところで、鈴木さんはかつて国書刊行会時代に担当した《ラテンアメリカ文学叢書》について、交流のあった有名な文芸編集者の安原顕さんから「現在の日本の出版界では考えられないような突拍子もない企画」と評されたと著書の『風から水へ』(論創社)で語っていました。今回の《知の革命家たち》にもまさにその言葉が当てはまるのではないかと思います。
鈴木:それは私にとって最大の褒め言葉で、そう言ってもらえるのは非常に嬉しいのですが、ただ、シリーズの刊行は始まったばかりですから、完結したときにそのように褒めていただくのがいいのかなと思います(笑)。
考えてみますと、私は最近、安原さんに限らず、すでに幽明境を異にする多くのひとたちに「見られている」ような感覚に襲われることがしばしばあります。私が若年時にたまたま幸運にも知遇をえた文学関係、出版関係のひとたち、たとえば、学生時代から編集者としてのキャリアの最初のころにかけて、いろいろな意味でお世話になった美術批評家の宮川淳先生や、私の編集者としての仕事にしばしば言及し励ましてくださった小説家の中村真一郎先生、それから編集者の安原顕さん、中野幹隆さん、宮下和夫さん(さらには数カ月前に他界した私の妻)といったようなひとたちに、ということですが。
「世界は劇場、ひとはみな役者」だとすれば、この劇場の観客には確かに死者たちもいる。「いる」どころか、観客の半数以上、あるいはそのほとんどは死者たちなのではないでしょうか。いま挙げたようなひとたちは、劇場の一隅から私のつたない「演技」をみつめている、そんな風に思えてならないわけです。
それで私は少なくとも主観的には、「あまりにみっともない田舎芝居はできないし、したくない」という感覚になるわけです。もちろん現実には、私は大小さまざまな田舎芝居に出演し、大根役者ぶりを大いに発揮してきましたが、それはまた別の問題です。ともかく私は先程あげたようなひとたちをすこしは「楽しませる」ことができるような芝居がしたいわけです。
安原さんが今回の企画に対して、半世紀前と同じような「褒め言葉」(なのかどうかは本当はよくわからないわけですが)をくれるかどうかはわかりませんが、私としては「努力賞」くらいはもらえるかもしれないと思わないでもありません。もっとも、こんな「ものほしげな」ことを言うのは、それこそさっき言った「田舎芝居」の最たるもので、チョットみっともないですね。
言うまでもありませんが、先程あげたようなひとたちから、私は多くのことを学び、たくさんのものを与えられました。私の一部は、確実に、彼らから出来ています。彼らは私の一部なのです。ボルヘスはあるところで、「私がダンテを読むとき、私はダンテである。私がシェイクスピアを読むとき、私はシェイクスピアである」と言っています。私はボルヘスのこの断言がすきです。ボルヘスに倣って言えば、「私が宮川淳を読むとき、私は宮川淳である」「私が安原顕を読むとき、私は安原顕である」ということです。
あなたが私にとって非常になつかしい、というよりもすでに私の一部である(そしていまや誰もその名に言及することのなくなった)ひとの名を挙げてくださったおかげで、チョット脱線してしまいました……。
――貴重なお話をありがとうございます。近現代美術史からポスト構造主義まで、分野を越えてラディカルな思考を遺した宮川淳さんや、加藤周一らと文学運動「マチネ・ポイエティック」を担ったことでも知られる中村真一郎さんとも交流があったんですね。そんな鈴木さんの見立てでは、20世紀の知の革命とはざっくり言うとどのようなものだったのでしょう。
鈴木:もちろんいろいろな考え方があると思いますが、まず、19世紀にその後の知の革命の準備をしたひとたちがいた。マルクス、ニーチェ、マラルメといったひとたちがそう言えると思いますし、絵画では印象派がそれまでとは決定的に違うものを作り出しました。なぜニーチェが重要かというと、彼が「神は死んだ」ということをはっきり宣言したからです。つまり、近代になってそれまで神がいた位置に人間が来る。そして、それが20世紀のフーコーになると、「人間の終焉」ということになる。そこで人間のいた位置になにが来たかというと、言語だと思うんです。「人間の主体は言語をつうじてのみ形作られる」という認識が生まれたのが非常に重要だったのではないでしょうか。
われわれが20世紀における「知の革命」と呼んでいるものは、一般には、「認識論的断絶」(主として哲学において)とか「パラダイム・チェンジ」(主として科学史の分野で)と言われているものです。われわれがあえて別の言い方をしているのは、こうした「断絶」や「変化」が、20世紀のある時期にある特定の分野にだけ起こったわけではなく、時期的なズレはあるにしろ、文学・芸術・人文科学の全領域で起こった(はずだ)と考えているからです。印象派以降の芸術にしても、現代音楽にしても、ミニマル・ダンスや暗黒舞踏に代表される今日のダンスにしても、また、言うまでもなく、フーコー、デリダ以降の哲学やレヴィ=ストロース以降の人類学、アナール派以降の歴史学等々の今日の先端的な人文科学にしても、みな、それ以前のものとは非常に異なった相貌をもったものになっています。要するに、20世紀において、知の全体がそれ以前とはまったくちがったものになったわけです。
しかし、個々の分野の個々の問題に関心をもっているだけでは、全体はよく見えません(この点はわれわれも同じですが)。そこで、20世紀における知の変貌ぶりを総体として把握すべく、まず、その変貌を担った個々の文学者・芸術家・研究者たち一人ひとりに焦点をあてて、彼らの思考と行動、そして業績を個別に理解してゆく、まずそうしたことが必要なのではないか、そう考えたわけです。そして、このシリーズの250冊を読み終えた暁には、20世紀の知の変貌ぶりが、その細部に至るまで、なまなましくわれわれに迫ってくる(かどうかは、もちろんシリーズが完結してみないとわからないわけですが)、そうしたシリーズにしたい、そう思ったわけです。
そうした「断絶」「変化」の根本・中心にあるのはなにかと言えば、やはり、「言語」と「主体」の問題、ととりあえずは言うことができるのではないでしょうか。その具体相は、それこそこのシリーズの個々の巻をごらんいただくとして、たとえば、1960年代後半から70年代にかけて起こった「引用」をめぐる問題のことを振り返りたくなります。
――「引用」をめぐる問題、ですか。
鈴木:はい。まず、ジュリア・クリステヴァが、「あらゆるテクストは引用である」(デリダ流に言えば、「すべては常にすでに書かれている」というところでしょうか)ということを主張し、「間テクスト性」の概念を提唱しました。逆に言えば、「オリジナリティ」というものを疑問に付したわけです(1910年代のデュシャンによる、「レディメイドのオブジェ」の提唱に似ています)。
ときをほぼ同じくして、日本でも、「引用」の問題を考え続けていた宮川淳先生が、文字通りの引用だけからなる「論文」(短いものでしたが、引用のすべてに出典もついていました)を、たしか『現代思想』(『ユリイカ』だったかもしれません)に発表しました。つづいて、その数カ月後くらいだったと思いますが、沢崎浩平先生が(宮川先生の「影響」をうけてのことでしょうが)やはり引用だけからなる「論文」を、こちらは『現代詩手帖』に発表する、ということが起こりました(ついでながら、宮川・沢崎の両先生は私の学生時代の恩師です)。
クリステヴァの方は、言語/テクストについての理論、旧来の考え方を一掃するめざましい理論ですが、宮川論文/沢崎論文の方は、いわばその実践です。私はある種の衝撃を受けました。しかし残念ながら、この二つの論文はほとんどなんの反響もひき起こさなかったように思います。私はこのふたりの先生に深い敬意を感じると同時に、日本のメディアの状況、ジャーナリズムの状況にいたく失望したのを覚えています。
そして、21世紀も1/4がすぎた今日の時点で、20世紀に起きたこうした出来事を振り返るとき、現今の生成AIをめぐるかまびすしい論議を想起せずにはいられないように思われます。この数年の生成AIをめぐる議論は、1960~70年代の「クリステヴァ―デリダ―宮川―沢崎」の理論と実践のパスティッシュないしはパロディなのではないでしょうか。
「語るのは誰か?」という問いへの答えは、遠い遠い時代には「語るのは神だ」ということであり、19世紀には「語るのは私だ」ということになり、20世紀には、「語るのは言語(ないしはテクスト)だ」ということになりました。21世紀には、「語るのは生成AIだ」ということになるのでしょうか。明るい地獄が近づいているということでしょうか。
20世紀に起きた問題は現在、なにも解決されてはいません。むしろ混迷はますます深まるばかりなのではないかと。
――現代的でアクチュアルな問題が、20世紀の知の革命にはあると。想定読者は高校生以上とのことですが、そのなかでもどんなひとに読んでもらいたいですか。
鈴木:簡単に言えば知的好奇心のある読者、高校生であれ、100歳のご老人であれ、知的好奇心にみちた読者ということですね。20世紀の知の世界で起こった「変化」や「断絶」とはなんだったのか、そしてそれが21世紀の現在にどのようにつながっているかに関心のある方々。もちろん、われわれにだって全体像が見えているわけではありません。シリーズを作るなかでわれわれも勉強してゆく必要があるでしょうし、一般の読者の方々や高校生・大学生ともいっしょに学んでいきたいと思っています。
ラインナップづくりについて
――現時点で予告されている人物のラインナップも膨大なもので、これを作ること自体も大きな仕事だったと思います。選定はどのように行なったのでしょう。
関根:これまでにもいろいろなかたちで一緒にお仕事をさせていただいてきた、信頼できる研究者や著者の方々の協力を得ました。それぞれの分野ごとに、「この人物を取り上げた方がいい」「この人物の巻を書くのはこの研究者に任せるのがいいんじゃないか」といったご意見をいただきながら、ラインナップを組み上げました。
鈴木:企画や協力の性質によって「監修者」とか「編者」というかたちでお名前を出すかどうかは変わりますが、専門家と協力しながら作っていくという意味ではいま並行して出しているバルザック《人間喜劇》全訳(全20巻)の企画と同じと言えば同じですね。
――なにかしらのラインナップを打ち出すことの宿命として、どうしても足りない部分について突っ込まれることもあると思います。たとえば、地域やジェンダーが偏っているのではないかと言われることはありますか。
鈴木:読者の反応はこれからですが、執筆者の方々からそういうご指摘をときどき受けたりはします。
関根:そういったご批判はもっともだと思います。ですが、そもそも具体的なシリーズがなければ批判も生まれません。最初から完璧なものができるわけではないですし、批判していただくことは決してネガティブなことではない。今後、水声社であれ他社であれ、今回のシリーズを批判的に検証し、そこに欠けている部分を補うような仕事をしていけばいいのではないでしょうか。
鈴木:今回の企画は一応、20世紀の欧米に対象を絞ってはいますが、たとえば第2回配本ではカリブ海出身のエドゥアール・グリッサンを入れるなど、ある程度偏りをなくす努力はしています。それでもご批判をいただいた際には、シリーズに入れるべきと思う具体的な人名を挙げていただいて、個別に検討することにしています。もちろん商業ベースの企画なので、対象の人物の知名度や採算性といったことも常に見ながら検討することにはなりますが。
関根:ほかに現実的な問題としては、取り上げたい人物でも、ふさわしい書き手がみつからないという場合もあります。いずれにせよ、われわれはわれわれにできるベストを尽くす。そのことでそこから先に広がっていくものもあるはずだと考えています。
――《知の革命家たち》シリーズではほかにこだわりのポイントはありますか?
関根:すこしマニアックな話をすると、巻末広告にも特徴があります。すべての巻の末尾にシリーズ既刊と次回の配本予定の広告を入れることにしていて、それ自体は珍しくありません。ただ、鈴木のアイディアで、タイトルとなる人物名の後ろに生没年を入れることにし、さらに生年順に並べることにしました。配本を重ねるたびにそこに載る人物がどんどん増えていくわけですが、そうするとある種の年表が出来上がっていくんですね。文学・芸術・人文科学のひとたちがジャンルに関係なく並ぶことになり、「このひととこのひとは実は同じ年に生まれてたんだ」とか「この仕事は意外とこのひとが生まれるまえだったんだ」といったことが見えてくる。これが250人並ぶと、それだけで20世紀を俯瞰するようなひとつの膨大な資料が展開することになると思います。
また、装丁はいつも水声社でお世話になっている宗利淳一さんにお願いしています。《知の革命家たち》という壮大なシリーズにふさわしい、素敵なデザインを施していただきました。
出版業界への明るい「喝」
――すこし突っ込んだ話になりますが、いま厳しくなっていると言われる出版業界でこれほどの巨大企画をやるのは大変なことだと思います。売上やコストの面での勝算はどれくらいあるのでしょうか。
鈴木:答えにくい質問ですね(笑)。まずは一年ぐらいやってみないと成功か失敗かは言えないと思います。とはいえ、水声社らしいカラーを出せている企画だと思いますし、いずれにせよ4~5年のことですから、始めた以上はとにかく最後までやり遂げたい。というか、そうでなければなんのためにわざわざ出版社をやっているかわからないですから。
――鈴木さんの『風から水へ』によると、国書刊行会時代には荒俣宏さんらが手がけた《世界幻想文学体系》や、そのほかにも《ラテンアメリカ文学叢書》《ゴシック叢書》などを担当されてきたとのことです。たとえば《世界幻想文学体系》も全45巻55冊というボリュームなわけですが、こういった大きな企画を成立させるために必要なものはなんなのでしょう。
鈴木:やはり企画が大きくなればなるほど、ひとりやふたりではできません。先程も話に出ましたが、いま一番ふさわしいと思われる専門家の方たちにできるだけ協力していただくこと。そしてもちろん執筆者の方々、さらに編集を担当するにふさわしいスタッフの面々。それがあってこそできることです。
――先程もお話があったとおり、『風から水へ』では安原顕さんや『現代思想』『エピステーメー』を創刊した中野幹隆さんといった伝説的な編集者との交流についても書かれていました。一言では言えないと思いますが、彼らから学んだことはなんでしょう。
鈴木:そのふたりはそれぞれタイプが違います。中野さんはどちらかというといわゆる研究者タイプで真面目、逆に安原さんは無頼派なところがあって大手出版社の編集者(とはいえ、もともとは小出版社の出身です)とは思えない雰囲気のひとでした。でも、どちらも「こういう本を出したい」とか「この著者のものを出したい」という思いが強烈にある点では共通していました。中野さんの場合は人文科学や自然科学、安原さんの場合は欧米の現代文学と、関心の領域はそれぞれでしたが、とにかく新しいものに関心がありましたね。
そのことに関連して思い出すのは、ボルヘスがはじめて(2回目のときだったかもしれません)来日したときのことです。フランス文学者の清水徹等、2~3人の日本の批評家・外国文学者の方々とのパネル・ディスカッションがありました。討論の内容はほとんど忘れてしまったのですが、ひとつだけ、いまでも覚えていることがあります。
清水さんがボルヘスに、「あなたはとても長く、数十年にわたって書き続けている。書き続けるための秘訣があったら教えて下さい」と質問したのです。
ボルヘスの答えは、私にとっては意外なものでした。彼は、ひとことだけ、「情熱」、と言いました。もちろん、通訳者がそう訳した、ということです。仏語や英語の“passion”には「受苦」の意味もあるわけなので、いちがいには言えませんし、あるいは両方の意味で使ったのかもしれません。いずれにしろ、おふたりとも、こうした意味での“passion”、出版に対する“passion”を非常にもった編集者だったと思います。
――なるほど。長年出版業界で仕事をしてきた鈴木さんから、いまの業界はどう見えていますか。
鈴木:評論家ではないので日本の出版界全体についてどうこう言うことはできませんが、私自身が身をおいてきた中小零細出版社について言えば、ほとんどのところが経営上の非常な困難をかかえているようです(われわれの社だけは例外だ、と言う「勇気」は私にはありません)。この10年ほどのあいだだけでも、それなりに仕事をしてきた小出版社が何社も、何十社も姿を消しています。これから先の5~10年くらいの間にはさらに多くの小出版社が退場するのではないでしょうか。なにしろ、小出版社の経営者には、私同様のいわゆる「団塊の世代」が多く、彼らが退場したあとをつぐ世代がいない、というところもかなりあるようです。
そうしたことをボンヤリと考えていた十数年前のある日、美術批評家の松浦寿夫さんと雑談をしていたときのことだったと思いますが、こんなことを言われたのです――「鈴木さんのところはパリのガリレ社(éd.Galilée)に方向性がチョット似ていますよね。ガリレ社と包括的な提携をして、ガリレの新刊をかたっぱしから邦訳出版していったらどうですか。ぼくも協力しますよ」。
フランスの人文科学の新しい動向を積極的に紹介し続けている小出版社と「包括的業務提携」を結ぶという驚くべきアイディアに、内心では非現実的だと思いつつも、私は大いに魅了されました。その後、紆余曲折がありつつガリレ社とはコンタクトがなかなか取れずにいたのですが、2年ほど前、「ガリレ社、出版活動停止。倒産か?」といったような噂が流れてきました。それを聞いて、私の「ガリレ熱」は再び高まり、「買収」ないしは「再建」を考えるようになりました。
この話を友人、知人にすると、多くの場合、笑われます。なかには、この話は聞かなかったことにしようということなのでしょうか話題をそらす友人などもいます。彼らからみると、私は「夢想家」ないしは「狂人」(?)、ということなのかもしれません。しかし、われわれの会社のあまりに「ミミッチイ」資金ぐりのことばかり考えていると、ときには夢想家ないしは狂人になるのも悪くはないと思うのです……。
――夢のある話ですね。いずれにせよ、そのような出版業界の状況のなかで水声社を40年以上も続けてこられたのはすごいことだと思います。
鈴木:さっきもすこしお話ししたフランス文学者の清水徹さんにも言われたことがあります。あれは10年前だったか20年前のことだったか、たしかお茶をのみながら打ち合わせをしていたときのことでしたが、清水さんがこう聞くわけです。「君の会社はどうやって経営してるんだ」と。「似たような出版社でぼくが知っているところはみんなすぐ潰れた。君のところだけこうも続いているのは絶対におかしい。なにか秘密があるはずだ。教えてくれないか」というわけですね。ただ、どうして続けられているのかは自分でもよくわからないので、困ってしまいました(笑)。
――なんと、ボルヘスと同じことを聞かれたんですね。お話を聞いていると、ボルヘスや先輩編集者の方々ともつうじる「情熱」と、他方でそのようにはぐらかされるある種の明るさが秘訣なのかなという気がしてきました。無理やり《知の革命家たち》シリーズに話をつなげると、今回シリーズの宣伝として出ている3つの識者推薦文のうち、松浦寿輝さんと中沢新一さんのものに「明るい」「明るく」といった言葉が出てきていたのが印象的でした。そういうコンセプトもあるのでしょうか。
鈴木:いやあ、明るい暗いはあまり考えたことはないですね。自分のことも、どちらかというと「物静かなインテリ」(?)なのかなと思っていたのですが。
――大変失礼いたしました(笑)。最後にあらためて、いまこのシリーズを世に問うことへの意気込みを教えてください。
鈴木:さっき評論家ではないと言いましたが、とはいえ、はっきり言っていまの出版業界はあんまり元気がないわけです。業界全体の売上はどんどん落ちているし、同業者を見ていてもとくに展望もやる気もないんじゃないかというひとがいないというわけでもない。やりたいこともないのにこんな業界にこだわっている必要はない。やりたいことをやればいいわけです。出版をやりたいのであればやればいい。やりたいことをやらないのであれば、われわれの存在意義なんてない。たしかにおっしゃるとおり、コストの問題もあるし、簡単ではないかもしれない。だけど、われわれ零細出版社は零細出版社なりに、「こういうことをやるんだ」ということを全世界に――とはいえ日本語なのでとりあえずは日本人に――示していけばいいのではないでしょうか。
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