「体育会系」は称賛か揶揄か? 研究者が語る、「運動部の不祥事」が生まれる歴史的背景とその対策
中央公論新社から『体育会系 日本のスポーツ教育が創った特異な世界』(中公新書)という、刺激的なタイトルの本が出版された。「爽やか」「礼儀正しい」「ノリが良い」。体育会系に対してそのようなイメージを持つ人は多いが、その実際については、ちゃんと知られていないのが現実だ。
本書は体育会系の起源から、大学運動部における先輩・後輩関係の調査、スポーツ推薦入試の軌跡と現状、体育会系学生のキャリア形成の困難など、一般の人間には知り得ない体育会系の世界が多角的に描かれている、画期的な一冊だ。今回は自身もアスリートとしてのキャリアを歩み、現在も順天堂大学スポーツ健康科学部の准教授として、学生、選手の指導にあたっている著者の小野雄大に、本書に込めた思いを聞いた。
体育会系的な世界とはいったい何なのか
ーー『体育会系 日本のスポーツ教育が創った特異な世界』を書こうとしたきっかけを教えてください。
小野雄大(以下、小野):私は小学校から大学まで、世界を目指す選手たちが集まる環境でバドミントンを続けてきました。いわゆる「体育会系」のど真ん中で育ってきた人間です。
その世界は、厳しく、濃密で、ときに理不尽でもありました。でも同時に、強い仲間意識や達成感も得られる。だからこそ私は、自分が生きてきたこの世界はいったい何だったのか知りたいと思ったんです。
世の中では「体育会系」という言葉が当たり前のように使われています。称賛にも、揶揄にも、批判にも使われる。でも、それはいつ、どのように生まれ、どんな人のことを指しているのか。実は誰もきちんと説明してこなかったのではないかと思いました。
不祥事が起きれば「体育会系の体質だ」と言われる。けれど、その“体質”とは何なのか。私はそれを感覚やイメージではなく、言葉で説明できる概念にしたかった。自分が生きてきた世界を、当事者として、そして研究者として、構造として捉え直してみたかった。それが、この本を書こうと思った出発点です。
ーー体育会系を意識し始めたのはいつからですか?
小野:高校時代だと思います。母校の青森山田高校はスポーツに振り切った学校だったので、授業は午前中だけで午後はずっと練習という毎日でした。バドミントンでは何名ものオリンピック代表やメダリストを輩出してきた強豪校です。
指導者も厳しく、先輩・後輩の上下関係もはっきりしていて、ガッチリとした規律のある世界でした。もちろん、それが当たり前だと言われればそうなのかもしれません。ただ、当時の私は、「これは何のためにあるんだろう」「どうしてこうなっているんだろう」と、どこかで引っかかっていたんです。ただ、そのなぜという問いに答えられる人はいなかった。「そういうものだから」の一言で簡単に片づけられてしまうことが多かったです。そのときに、先に述べたように、この体育会系的な世界とはいったい何なのか、それを純粋に知りたいと思いました。つまり、このときに持った疑問や問いが、後に体育会系を研究しようと思うきっかけになったのだと思います。
海外でも「体育会系」という考え方はあるのか
ーー日本独特のものと思われる体育会系ですが、そもそも日本のスポーツ教育のルーツはイギリスの名門校、パブリックスクールにあると本書で書かれています。
小野:私たちがイメージするスポーツ、いわゆる近代スポーツはアメリカとイギリス、特にイギリスで始まったものが多いんです。スポーツ文化そのものの発祥がイギリスだと言えます。
日本では明治時代、もともとなかった学校制度というものが欧米にならって作られ、スポーツ文化も一緒に入ってきました。そのときにお雇い外国人教師が英語を教えたりするかたわら、自分たちがやってきたスポーツを教えた。それに当時の帝国大学(現在の東京大学)の学生たちがのめり込んでいったんです。そのときに重要だったのが精神性。スポーツは勝ちがすべてではなく、相手をリスペクトして人として成長していくものというように、スポーツの教育的価値が強調されながら広まりました。
それを受け入れた当時の学生たちは卒業後、全国の中等学校などの校長になって、運動部活動を始めた。スポーツと教育的価値を強く結びつけながら展開されていったところに、日本の運動部活動のルーツがあります。
ーーイギリスやアメリカでも学生スポーツは盛んです。海外でもいわゆる体育会系というものはあるのでしょうか。
小野:アメリカではカレッジスポーツが社会的に大きな存在感を持ち、「ステューデントアスリート」という、学業と競技の両立を理念とする概念が確立しています。ただ、日本の体育会系のように一種の社会的カテゴリーとして広く内面化・一般化されているものではありません。
実際、私が体育会系の概念をイギリスのジャーナルに投稿したとき、英語でそれにあたる言葉がなかったんです。ですから私はアルファベットで「TAIIKUKAIKEI」と表現して、あえて言葉そのものを真正面から発信しようとしました。
社会の要請が生んだ体育会系の負の連鎖
ーー基本的にアスリートにはアスレティシズム的な教育的価値の体現が期待されながらも、体育会系には暴力や厳しすぎる上下関係など、ネガティブなイメージがつきまとっています。このような側面はどこから生まれたのでしょう。
小野:もともと学校での教科体育の授業は、明治期から昭和戦前期までは今のような運動の楽しさを求めるものではなく、いわば「身体の教育」でした。ほとんど軍事予備教育のようなものです。当時はとにかく身体を強くするためのもので、スポーツもやらせましたが、軍隊式の思考様式が根本にありました。競技スポーツの場としての運動部活動でも、その流れを受けたところはあると思われます。はっきりしたことは言えないんですが、軍隊式の授業を受けてきた人たちや戦争で軍隊を経験してきた人たちが戦後に指導者になることで、スポーツ教育の場で暴力を受容する環境ができていったのではないかという見方もされています。
ーーおそらく、そうではないかということですね。
小野:そのあり方が決定づけられたのが、1964年の東京オリンピックです。「東洋の魔女」といわれた女子バレーボールチームと男子レスリングが金メダルを獲得しました。女子バレーでは大松博文監督の、今では許されないような厳しい練習が話題になりました。男子レスリングも、日本レスリングの父といわれた八田一朗代表監督のスパルタ練習が、メディアで盛んに取り上げられました。実際に彼らはそれで勝ったので、この成功体験が美談としてもてはやされていった。高度経済成長の真っ只中という、特殊な時代の空気も影響したと思います。根性という名のもとで、暴力的な指導が世間に認められてしまったんです。
ーーその指導を受けた世代が指導者になって、また受け継いでいったんですね。
小野:次に鍵になるのが80年代です。実話をもとにしたドラマ『スクール☆ウォーズ』で鉄拳制裁が当たり前の世界が描かれ、大ヒットしました。同様に80年代には『3年B組金八先生』も大ヒットしましたが、当時は学校での暴力が全国的に問題になっていて、生徒指導のあり方がより問われていた時代だったんです。いかにして荒れた学校を正常化するか、そこで期待されたのが運動部活動でした。運動部活動に生徒指導上の期待が寄せられ、そこでの鉄拳制裁に価値が与えられてしまった。80年代にそういう指導を受けた人たちが、指導者になってそれを繰り返してしまっていたとの指摘もあります。
ーーその流れを受け入れた、時代の空気もあったんでしょうか。
小野:それを求めていた人たちがいたのでしょう。「モーレツ社員」みたいな、なにを言ってもやらせても大丈夫な感じの人たちが評価され、引っ張り上げられていった時代だったと思います。時代ごとに鍵になる空気感があったはずです。戦争があって戦後があって、高度経済成長期に東京オリンピックがあって、80年代があって。スポーツ教育がある意味で高度に社会的文脈と結びつきながら強化、継続されていく流れがあったと考えています。
閉鎖的な「内側の論理」が招くリスク
ーーその流れは近年、変わってきているように感じます。
小野:少しではありますが、この10年ほどで、確実に変化は感じています。その大きな転機になったのが、2012年に大阪市立桜宮高校で起きた、バスケットボール部キャプテンの自死の事件でした。監督による暴力が背景にあったとされる、非常に痛ましい出来事です。
当時、私は大学院生でした。あの事件を境に、スポーツ界を取り巻く空気が一変したことを、肌で感じていました。それまでにも暴力の問題は繰り返し起きてきました。しかし、この事件は社会全体を巻き込み、大きな問いを突きつける形になった。
結果として、スポーツ界には変化が問われるようになった。暴力根絶宣言が出され、コンプライアンス体制が強化されるなど、制度的な改革が進んでいきました。あの出来事は、スポーツの世界が「内側の論理」だけでは立ち行かなくなった瞬間だったのだと思います。
ーーまわりの空気が変わったということですか?
小野:同じような時期、ロンドンオリンピックの女子柔道チームでも、指導者のコンプライアンス問題が起きました。スポーツだけでなく、世界的に性差別や人種差別問題をなくそうというムーブメントが起こったことも影響していると思います。
ーーこれからさらに変わっていくと考えていいのでしょうか。
小野:日本のスポーツにある負の側面については、今より厳しくなっていくと思います。今の若い人たちが指導者になったとき、どういう時代に変わっているかが重要です。
ーーそれでも暴力などさまざまな不祥事はなくなっていません。ゼロにすることは、やはり難しいのでしょうか。
小野:率直に言えば、今も暴力はなくなっていません。完全に消えたとは言えないのが現実です。
例えば、多くの運動部は、寮生活を含め人間関係が内側で完結しがちです。練習も生活も同じメンバーで共有する閉じた環境では、「勝つためなら仕方ない」「昔からこうしてきた」という論理が疑われにくい。そこに強い上下関係が重なると、力の使い方を誤るリスクは高まります。
加えて、その問題は個人の資質だけではなく、閉鎖性という構造にあります。だからこそゼロにするのは簡単ではない。ただ、その構造を可視化し、外部の視点を入れていくことで、確実に減らすことはできると考えています。
「ムラの常識は、ときに非常識」と思え
ーーそのような状況で具体的な取り組みは行っていますか?
小野:私は順天堂大学のスポーツ健康科学部で教えていますが、1年生約600名が履修する必修科目でスポーツ倫理の内容を扱う際、必ず伝えている言葉があります。それは「ムラの常識は、ときに非常識」ということです。
体育会系のコミュニティの中にいると、その世界の価値観が当たり前になっていきます。努力や規律、上下関係といったものも、内部では自然なものに感じられる。しかし、それが社会全体の常識と一致しているとは限らない。閉じた環境では、自分たちの行動や判断を疑う機会が減っていきます。
たとえば、思わず手が出てしまう。あるいは強い言葉で追い込んでしまう。そのときに「これは危ういのではないか」と立ち止まれるかどうか。自分たちの世界を一度疑い、一般社会の常識と対話する姿勢を持てるかどうかが大切だと伝えています。
体育会系学生にとって、今はスポーツが共通言語になっている環境だからこそ、成り立っている人間関係があります。しかし社会に出れば、その前提は共有されていません。そのことを理解したうえで行動できる人材を育てることが、教育の役割だと思っています。
特に本学は、各運動部が高い競技レベルを誇るだけでなく、長年にわたりスポーツ界に多くの人材を送り出してきました。卒業後もスポーツ界に関わる人が多い大学だからこそ、その影響は小さくありません。だからこそ、私たちはより強い使命感を持って教育に向き合う必要があると考えています。
ーー学校や部活動以外の場所で、いろいろな人と交流することも大事なのでしょうか?
小野:例えば大学の運動部ではアルバイトを禁止にしているところも少なくありませんが、私が指導している部(バドミントン部)では競技の妨げにならない程度ならOKにしています。体育会系以外の人と出会える場所なので、1つの社会経験の場として、アルバイトをやりたいという部員がいたら、積極的にチャレンジしたらいいと思っています。ムラから脱却した世界の中で、存分に厳しさに打ちのめされて欲しいという期待も持っています。
能力評価か、それとも大学の経営戦略か
ーー本書では、スポーツ推薦入試制度にも切り込んでいます。一般の人は名前こそ聞いたことはあるでしょうが、その実態についてはほとんど知られていません。この制度のいいところ悪いところを教えてください。
小野:そもそもスポーツ推薦入試の実態を研究するようになったきっかけは、ある新聞社の取材でした。実施率はどのくらいか、と問われたのですが、私は即答できなかった。調べてみると、スポーツ庁や文部科学省といった監督官庁でさえ、網羅的なデータを持っていなかったのです。これほど広く行われている制度なのに、全体像が見えていない。そうであれば、自分で調べるしかない。そう思い、日本の全大学の入試要項を取り寄せ、一つひとつ確認していきました。
この研究は地道で、根気のいる作業でして、正直、心身ともにかなりきつかった。ただ、その積み重ねによって初めて、制度の実態が数字として浮かび上がってきました。
スポーツ推薦入試は、理念だけで語れる制度ではありません。現場でどう運用され、どのような構造の中で機能しているのか。その全体像を明らかにすることが、議論の出発点になると考えていました。
その上で、スポーツ推薦入試の意義としてまず挙げられるのは、メリトクラシー、つまり能力や実績を評価する仕組みであるという点です。これまで競技に打ち込んできた努力が評価され、それが進学という形でキャリアにつながる。これは非常に重要なことですし、実際にこの制度によって進学の道を切り開いた人も少なくありません。国が掲げてきた推薦入試の理念とも、基本的には整合的だと思います。
ただし、実態を見ていくと別の側面も浮かび上がります。学力試験を課さないケースや、入学後に競技を最後まで続けることを誓約させるケースが少なくない。つまり、純粋なメリトクラシーというより、大学の経営戦略として機能している面が強いのです。
実際、スポーツ推薦を実施している大学の約82%は、偏差値45未満の大学です。さらに、入学後の競技継続を要件とする大学も半数近くにのぼります。学生の確保や、競技成績による広報効果を期待している構図が見えてきます。
問題はその先です。入学・入部までは手厚くても、その後のキャリア支援や学修支援が十分とは言えない大学も少なくありません。支援体制を整える大学は増えてきていますが、制度の理念と実態のあいだには、まだ大きなギャップがあると感じています。
スポーツの価値は「負けを経験できること」
ーー指導者の数が少ないのもあるのでしょうか?
小野:よく人から「それは知らなかった」と言われるのが、大学の運動部で専任教員の指導者がついている部は、かなり少数だという点です。全国のほとんどの大学は他に仕事を持ちながら外部から来てくれるOB・OG監督で成り立っており、平日はほぼ関与できないという状況です。そのため、大部分の時間を学生主体で運営しているんです。
学生自主と言えば聞こえはいいんですけど、学生のみで強固なガバナンス体制を構築できるかと言われれば、それは簡単ではないでしょう。それこそ、日常的に部内でなにが行われているのか、全く見えていない指導者もいると思います。大学の運動部で不祥事が起こりやすい要因のひとつが、こうした学生主体の運営の難しさを背景にした点にあります。
一方で、組織が強ければ何でも許されるわけではありません。象徴的なのが、2018年の日本大学アメリカンフットボール部による悪質タックル事件です。あの事件は、強固な部内体制が築かれていたからこそ、外から見えにくい閉じた世界が生まれていたことを示しています。
問題は、個々の選手だけではありません。部の内部で決定が完結し、大学全体の管理や外部の視点が十分に機能していなかった。その結果、「やれ」と言われれば従わざるを得ない空気が生まれてしまったのです。
不祥事を減らすために必要なのは、外との接点を増やすことだと思います。伝統そのものを否定するのではなく、残すべきものと変えるべきものを自分たちで考える。そして、「なぜそれをしているのか」と問われたときに、誰もが説明できる状態をつくること。
時代に合わせてアップデートしていく。そのためには、まず考えることをやめないことが大事だと思います。
ーー体育会系についてさまざまな言及がされている本書で、一番アピールしたかったことはなんでしょうか?
小野:まずお伝えしたいのは、私は体育会系を批判するためにこの本を書いたわけではない、ということです。
「スポーツしかやってこなかった」という言葉を、どこかで引け目のように感じている人がいるかもしれません。でも私は、それは誇っていいことだと思っています。子どもの頃から大学卒業まで、本気でひとつのことに向き合い続ける。その時間は、決して当たり前ではありません。
私は、スポーツの価値は何かと問われたら、「負けを経験できること」だと答えます。競技の世界では、日々うまくいかないことがあり、試合には必ず敗者がいる。それでも逃げずに、また次に向かう。その繰り返しを十何年も続けてきたという事実は、揺るがない力になります。
ここで大切なのは、それをどう意味づけるかです。これまでに経験してきた悔しさや葛藤を、自分の人生の資源として引き受けられたとき、競技経験は単なる思い出ではなく、その人の“芯”になるでしょう。
そしてこの本は、体育会系ではない人にも読んでほしい。社会のどこかで出会う「体育会系的な人」の背景に、どんな時間があったのかを想像できるだけで、関係は少し変わるはずです。
対立でも、切り捨てでもなく、理解から始める。その積み重ねが、これからのスポーツと社会の形を、少しずつ変えていくと信じています。
■書誌情報
『体育会系 日本のスポーツ教育が創った特異な世界』
著者:小野雄大
価格:1,056円
発売日:2026年1月22日
出版社:中央公論新社
レーベル:中公新書