日本史上最悪の獣害事件に再注目ーー恐怖の熊小説『羆嵐』が現代に伝えるもの
2025年の「今年の漢字」は「熊」だった。日本各地で熊の出没が相次ぎ、秋頃からはニュースで見ない日はなかった。私が住む福島県も例外ではなく、家の近所の道端に熊のフンが落ちていて、ちょっとした騒ぎになった。
そんな空気のなかで、手に取ったのが吉村昭の小説『羆嵐』(新潮文庫、初出1977年)だ。
眠れない夜。スマホでWikipediaを読み耽ってしまうことがある。残虐な殺人事件、奇妙な未解決事件、偶然が重なった悲惨な大事故……。フィクションではなく、事実であるがゆえの、逃げ場のない恐怖に、気づけば深夜まで画面をスクロールしている。
俗にいう「Wikipedia文学」というやつだ。その代表的な記事に「三毛別羆事件」がある。北海道に入植した開拓農家がヒグマに襲われ、妊婦をふくむ6人が命を落とした日本史上最悪の獣害事件である。
このWikipediaの元ネタとして『羆嵐』があらためて注目を浴びた。
『羆嵐』に描かれた凄惨な三毛別羆事件とは
1970年から71年にかけて、作家の吉村昭は月に一度北海道へ取材旅行をして、熊撃ち猟師たちを訪ね歩いている。そのとき聞き取った話はのちに短編集『熊撃ち』にまとめられるが、その最後の取材の際、吉村は三毛別羆事件について耳にする。
1915年12月9日、北海道苫前の六線沢と呼ばれる開拓集落が、体長約2.7メートル、体重340キロ前後のオスのヒグマに襲われた。
最初の犠牲者が出た太田家では、養子幹雄の側頭部に穴をあけられ、喉が抉られた状態で発見された。室内は散乱して、おびただしい血痕があった。窓枠には内縁の妻マユの頭髪がごっそりと絡みついていたことから、ヒグマによって山に連れ去られたことが判明した。翌日、捜索隊が雪の中で発見したのは、ヒグマに食い尽くされたマユの無惨な姿で、膝下からの両足と、頭髪を剥がされた頭蓋骨だけだった。
その夜、遺体を収容し通夜を営んでいた太田家を、ヒグマが板壁を打ち破り、ふたたび乱入する。幸い、死傷者は出なかったものの、十数分後に500メートルほど離れた明景家をヒグマが襲撃した。避難していた女性と子供が襲われ、妊婦を含む4人が殺され、3人が重傷を負った。
叫び声を聞きつけた男たちがすぐに救助に向かったものの、ヒグマが占拠する屋内に踏み込むことができなかった。生存者がいる可能性を考えると銃を撃つわけにもいかず、彼らはただ暗闇の奥から聞こえてくる人骨を噛み砕く音や犠牲者のうめき声におののくしかなかった。
とくに凄惨だったのは、妊婦だった斉藤タケの最期だ。遺体の腹は大きく裂かれ、胎児が引きずり出されたという。のちに生存者が語ったところによれば、ヒグマに襲われたときには、腹の中にいる赤ん坊を守ろうと「腹を破らんでくれ!」と懇願していたという。
また、斉藤タケの息子である6歳の巌も救出されたが、大腿部から臀部の肉が抉り取られ、骨が見えるほどの重傷だった。「おっかあ、熊獲ってけれ」とうわごとを叫び、水を求めながら、ほどなくして死亡している。当時、タケの夫であり、巌の父であった斉藤石五郎は警察と役場への使者として集落を離れており、この惨状を知らなかった。
12月14日、集落を恐怖に陥れたヒグマは猟師の山本兵吉によってようやく射殺される。仕留めた熊を橇にのせて運び出す最中に、天気が急変し、猛烈な吹雪が吹き荒れたという。吉村昭の小説『羆嵐』のタイトルはこのとき吹いた暴風に由来する。
三毛別羆事件から50年後、農林局の農林技官であった木村盛武が、生存者や討伐隊に参加した人々への聞き取りをおこなって、「獣害史最大の惨劇苫前羆事件」を発表した(のちに『慟哭の谷』共同文化社として書籍化)。吉村昭が、木村の了承を得てこの記録を参照し、さらに生存者への取材を重ねて、小説化したのが『羆嵐』である。
『羆嵐』はどんな現実を映しているか
しかし、あらためて小説と記録を読み比べてみると、『羆嵐』は事実に基づきながらも、出来事の枝葉を削ぎ落としていることがわかる。そこで焦点化されるのは、人間が心血を注いで築き上げたものが、圧倒的な力を前にして一瞬で無に期してしまう感覚だ。
たとえば、熊を撃ち倒した猟師の「山岡銀四郎」(山本平吉がモデル)は勇敢なヒーローとしては描かれず、「羆に対して非力な存在であることを自覚しながら、銃一挺をたよりに熊を斃して生きてきた」人間であり、その「胸に巣食う悲哀」をいやすために酒に狂う男でしかない。
開拓民たちは東北の寒村で水害に苦しめられた人々だった。生き延びるために北海道に渡ったものの、最初に与えられた土地はアブや蚊が大量に発生し、やがてイナゴの襲来で作物が食い尽くされたために、三毛別の渓流沿いにある六線沢に移住してきた。
彼らの住居は、材木を組んでその周囲を草で囲んだ壁にすぎず、出入り口にはむしろを垂らしただけの粗末な家だった。寒風が吹きすさび、囲炉裏にかざした鍋は凍ってしまう。人々は身体を寄せ合って寒さをしのぎ、ようやく生活が落ち着き始めた。その矢先に、ヒグマの襲撃を受けたのである。
次に引用する一節は、事実に基づくエピソードなのだが、吉村の手によって、熊の凶暴さと、開拓民たちの生活の貧しさが無理なく一つの光景に収められている。
「クマはいたか」
分署長が、銀四郎にたずねた。
「いました。二十分ほど前に、一番下にある家から出てきて山にのぼってゆきました。その家の前で、こんなものをかじっていた」
銀四郎は、雪の上においた石に眼を落した。
男たちは、身を寄せ合って石を見下した。それは、カボチャ大の石で鋭い歯でかみくだかれたらしく四分の一ほどが欠けていた。
「これは、湯タンポじゃねえか。一番下の家といえば松浦の家だが……」
六線沢の男たちの声に、長身の男が前に歩み出た。
男は石に手をふれると、女房の湯タンポだと言った。適当な大きさの石を焼いて布にくるみ、湯タンポ代りに寝具の中に入れる習慣がその地方の開拓民の間にひろまっていたが、冷え症の松浦の妻は、雪の訪れと同時に毎夜炉で石を焼き使用していたという。
「なぜこんな石をかみくだいていたのだ」
分署長の顔に、不審そうな表情がうかんだ。
「これが、女の使っていた物だからですよ。どこの家でも腰巻や女の枕がずたずたに切り裂かれていた。女の味を知ったクマは、女の匂いのする物を手当り次第にあさるのです」
その後、ヒグマを恐れて人々が去っていき、六線沢の開拓集落は無人の地と化した。
そういえば、吉村昭を一躍有名にした『戦艦武蔵』もまた、ひとびとの多大な努力と技術によって建造された巨大戦艦・武蔵が、戦艦同士の砲撃戦ではなく飛行機を主体とする航空戦へと変化するなかで、時代遅れの兵器として撃沈されていく様を描いた作品だった。人々が積み上げてきたものが、あっけなく意味を失っていく。
近年、相次いでいる熊の出没や人身被害の背景には、熊の個体数の増加や分布の拡大があると言われる。かつては人間が自然の領域に踏み込んでいった。しかし、いまや、人口減少や過疎化によって生活圏が縮小し、その空白を埋めるように、自然がふたたび獰猛な手を伸ばしている、というわけだ。
たしかに、私たちはこれまで積み上げてきた日本の崩壊に立ち会っているのかもしれない。『羆嵐』を読み終わって、そう思った。
■書誌情報
『羆嵐』
著者:吉村彰
価格:693円(税込)
発売日:1982年11月29日
出版社:新潮社