環ROY、YA小説を読む ベストセラー・長谷川まりる『杉森くんを殺すには』から考えた、物語の「機能」
「YA(ヤングアダルト作品。13~18歳くらいの中高生向けの書籍のこと)の作家にも、そこに携わる出版社にも、単なる優しさ以上の覚悟みたいなものがあって、自然と敬意を抱いてしまいます」。環ROYは、話題書、長谷川まりる『杉森くんを殺すには』(くもん出版)を読み終えた感想をそう言い表した。野間児童文芸賞を受賞したYA作品である『杉森くんを殺すには』は、高校1年生の女の子が経験した喪失と罪悪感を描いた物語であり、読者の胸の奥に沈んでいる感情を、そっと掬い上げる。
かつて「楽しかったわけではない」10代を過ごした環は、大人になったいまだからこそ、物語に描かれる「どこにも居場所がない感覚」に足を止める。そこから、作品の出自や背景、YAというジャンルの存在意義へと、視点が移っていく。
■『杉森くんを殺すには』が描いた“揺らぐ内面”
※本記事は『杉森くんを殺すには』の物語の核心部分に触れている箇所があります。未読の方はご注意ください。
――『杉森くんを殺すには』を読んで、どんな印象が残りましたか。
環:僕は小説をあまり読まないタイプで、読むとしても、評価が確定した芥川賞あたりをたまに読むくらいです。だからかなり偏っていると思うんですが、僕の中での小説は「作家の実存や欲望が反映された長文」というイメージでした。
でも、この作品はまったく違う方向を向いていますよね。実存や欲望をどう作品にするかではなく、サバイバーズ・ギルトを主題に据えて、「自分を責めて行き場を失った人々の気持ちを、物語という媒介を通して繋ぐことはできないか」と試みている。少なくとも僕にはそう読めた。
この物語を読むことで、「同じ気持ちの人が、きっとどこかにいる」と思い馳せられるようになっている。その「機能」が作品に組み込まれていることは明白で、その手触りが新鮮だと感じました。そして、こういう本が生まれる背景にも、自然と関心が向きました。
担当編集:著者の長谷川さんは『雨の日は会えない、晴れた日は君を思う』という映画をご覧になったことが、創作のきっかけだとよく話をされていました。その映画の主人公のような人が出てくる話を書いてみたいと。
環:作家自身の問題意識や、個人的な体験を起点にしているわけではないんですね。
担当編集:もちろん、作家さん自身の問題意識や経験が反映されていないわけではないとは思います。でもYAは中高生に向けた物語なので、おのずと主人公も読者と同世代になることが多いんですね。大人である作家が、悩みや不安を抱えた中高生の読者、あるいは昔の自分に、手を差し伸べるようなイメージで書かれた物語が多いのではないでしょうか。環さんが「違う方向を向いている」と感じられたのも、それが理由なのではないかと。
環:創作された物語が持つであろう機能についても、あらかじめ考えたうえで取り組まれているのだろうなと感じました。
――「機能」とはどんなものですか?
環:端的にいうと読み手に寄り添う、ということです。自分と似た境遇の人が、どこかにきっといるのだろうと想像させてくれる。この状態や感情が自分だけではないと思えることで、孤独が少しでも和らぐんじゃないかと感じました。物語という形而上の存在が雲のように浮かんでいて、そこが媒介となって、読者同士がつながりを感じられるのかなと思ったんですよね。
■心の内側にいる“もう一人の自分”
――環さん自身は、物語の主人公のような「居場所のなさ」を感じた時期はありましたか。
環:どこにいてもしっくりこない、という感覚はずっとありました。遅刻ばかりしていて、卒業アルバムの集合写真の日も遅刻して、結局写っていない、みたいな高校生でした。
――学校にも家庭にも「ここだ」という場所が定まらない状態。
環:決して楽しかったわけではない、そんな感じですね。本作の、「自分の中にいるちっちゃい誰々」って表現あるじゃないですか。あれがすごく印象に残っています。いわゆるフロイト的に言えば“投影”になると思うんですけど、それを噛み砕いてわかりやすく伝えていて、見事だなと感じました。僕も同じで、程度の差はあれど大人になってもそこは変わらないんですよね。僕のなかのちっちゃい妻とか、ちっちゃい鎮座さんとか、ちっちゃいユザーンさんとか、確かにいるよねと思いながら読みました。
■“死”に触れた時、言葉はどう機能するのか
――物語の最重要テーマであるサバイバーズ・ギルトについてはどのように感じましたか。
環:僕自身は経験がないので、正直なんとも言えないですね。ただ、年齢が若くて未熟な段階で起きた出来事ほど、傷は深くなりそうだなと思います。この作品は、それを安易に処理しようとしていないと感じました。「大丈夫だよ」といった表面的な優しさではなく、まず「苦しい」という感覚が厳然とあって、それはなんなのか、どう向き合えばいいのか、ゆっくり丁寧にほどいていくような印象を受けました。
担当編集:そうですね。とくに今作のような「難しい」主題をあつかう際に注意しなければならないことは、児童文学だからといって安易なハッピーエンドで終わらせるのではなく、物語の中で主人公が向きあっている主題を真摯に描き切ることだと考えています。子どもたちに届けるものなので、いわゆるバッドエンドは避けて、希望を見せなければなりませんが、安易な決着だと嘘になってしまう。そこが難しいところだと思います。ですから、環さんの感想を聞けてとても安心しました。
環:安易な希望に寄ると軽薄になるし、リアリティや説得力を追求すると、今度は希望が見えづらくなるからバランスが難しい、どんなジャンルにも通底するジレンマかもしれませんね。本作は大人が読めば「過去の自分と対話する本」にもなるし、中高生が読めば「今の気持ちを言語化してくれる本」にもなる。読む人の立場で解釈も変わる、そういう読み方もあるのかなと思いました。
■YAの社会性と課題――「棚がない」という問題
環:今回、僕は初めてYA小説という言葉を知りました。中高生が何気なく本屋に行って、こうした作品に出会うのはポピュラーなんでしょうか?
担当編集:力を入れてくださっている書店さんもあります。けれど書店さんでのコーナーそのものの扱いが大きくなかったり、「YAというジャンルに興味のある人でないとたどり着けない場所」に本があったりと、もったいない状況も多いのが現実です。
環:存在しているのに見つけられない、は、もったいないですよね。若年層にとっての生育上の葛藤や社会的な問題意識が主題になる機会ってかなり限られていると感じます。おそらく経済合理性の中で、決定権を持たないからなんでしょうね。だから、不安定で未成熟な世代にきちんと寄り添おうとする創作には、単なる優しさ以上の覚悟みたいなものがあって、自然と敬意を抱いてしまいますね。
担当編集:おっしゃる通りです。なので、YAの作家さんや編集者さんたちは、届けたいところに届けるための活動にとても熱心な方が多いんです。
――YAの場合、SNSによって周知が拡大することがあります。『杉森くんを殺すには』では、佐久間宣行さんがXで「面白い」とポストしていました。
担当編集:はい。XやInstagramで「こういう作品があるんだ!」と興味をもってくださる人が増えています。『杉森くんを殺すには』も、まさにSNSによる広がりがあります。まず大人が読む。それで「高校生の頃の自分に渡したい」と思って買ってくれる。
――図書館ではどうですか。
担当編集:司書さんの熱意で「YA」「ティーンズ」コーナーを作っている図書館も増えてきていると思いますが、全ての図書館に十分にあるかといわれると、わからないです。
環:「そこに辿り着く導線」がまだまだ発展途上というのが現実なんですね。
――中高生本人に渡すにも難しさがありますよね。
環:嫌いな大人に薦められたら意地でも読まないし、好きな、少しでも共感を寄せることができる先生から薦められたら喜んで読んだり(笑)。
――そういうことありますよね(笑)。
環:読書は、誰から手渡されるかで意味が変わるのかもしれませんね。その関係性そのものが、読書体験の一部になり得るから。YAというジャンルの小説があると知って読んで、自分だけじゃない、どこかに仲間がいるんだって思えることが、ある種の居場所になれば少しだけでも楽になる部分があるかもしれないと思います。
――居場所そのものの提示ですか。
環:僕はこれまで芸術に触れてきて、「自分と同じ気持ちの人が他にもいるんだ」と感じられたときに、感動してきたように思います。だから、こうした物語を肯定したい。一方で、言葉で誰かを救えるとはまったく思っていません。希望を押しつけた瞬間、それはもう他者の物語になってしまう。結局、希望はそれぞれが自分で見出すしかない。そして、そのことをはっきりと言い切ることこそ、誠実さだと思います。
――YAにもその力があると。
環:YAは、未成熟な世代に真正面から寄り添おうとする、高い志をもった表現だと感じました。こうした領域で活動している人たちを尊敬するし、若い人たちが必要な時期に、必要な作品と出会えることを静かに願っています。