憎むべきは野球自体ではない? 新書『文化系のための野球入門』から読み解く、甲子園問題の背景

 今年も大いに盛り上がりを見せていた全校高等学校野球選手権大会。いわゆる「夏の甲子園」である。今年も同様にネット上で吹き荒れていたのが、野球それ自体および野球部とその部員、さらに野球に関する体育会系的文化に対するさまざまな意見だ。そもそもSNSを活用する人々の間では野球は「悪しき体育会系文化」の象徴として槍玉に挙げられやすかったが、今年は特に広島の広陵高校での暴力事件の影響などもあり、例年以上に野球とその周辺のありように対して批判的な意見が飛び交っていた。

■灼熱の甲子園での応援

 かくいう自分も、野球と野球部に対して複雑な感情を持っている。出身高校がいわゆる「野球が強い地方私立高校」だったため、テストの問題と回答(出題範囲などではなく、具体的な問題とその回答である)を野球部は先に教えてもらえるなど、野球部員が他の生徒に比べて圧倒的に優遇されている様子は何度も目にした。その中でも、夏の甲子園に応援に行かされたのはキツい思い出として記憶に残っている。出欠をとられるので夏休み中なのにサボるわけにもいかず、甲子園の中をちょっとでも見られれば面白いかもと思いきや「自校チームの攻撃時には必ず席に座って応援する」というルールを守らせるため目を光らせる教師たちのせいで球場内を見て回ることすらできず、試合が終わったら速攻でバスに詰め込まれて即帰宅。観光どころか、灼熱のアルプススタンドでグッタリしていた記憶しかない。そんな経験もあって、「野球部」に対してネガティブなイメージを持つに至る。

 中野慧による『文化系のための野球入門 〜「野球部はクソ」を解剖する〜』は、タイトルの通り「なぜ野球部は"あの感じ"になり、高校野球はさまざまな問題を抱えるようになったのか」をコンパクトに解説した書籍である。これがまあ、大変面白かった。なんとなく「野球、気に入らねえなあ」と思っていたが、この本を読むことで「憎むべきは野球自体ではないのではないか」という気持ちになったのである。

■現在の体育会系像とは

 本書はまず、読者の想像するような悪しき体育会系像について触れたのち、現在における実際の体育会系像を紹介する。実際には現代ではいわゆる根性論的な指導よりも科学的見地による練習・指導が重視されており、さらにこれまで数々の問題点が指摘されてきた女子マネージャー制度にも変化がある一方、高野連と共同主催者である朝日新聞は「甲子園野球」のブランドイメージを保つために旧来の頑迷な建前に固執していることが書かれている。

 そこから本書は「一体なぜ日本において野球は特権的な地位を占めることができ、高校野球は『青春の燃焼』として残酷ショー的な求道イベントと化したのか」という点を、歴史を遡って解説していく。坊主頭や暴力的な指導などから、旧軍・大日本帝国的な思想と通底していると語られがちな高校野球だが、そこまでわかりやすい話ではない。そもそも野球は海外から伝わってきた舶来のスポーツであり、それが旧日本軍の伝統と密接に接続しているというのは、よく考えればおかしな話である。

 この奇妙なねじれを、本書は歴史を遡ることで解きほぐす。話は全く一筋縄ではいかない。そもそもアメリカでの野球創世神話からして国家と時代が必要としたイメージに沿って人為的に操作されたものであり、それが明治の日本に伝わって普及するにあたり、さらにねじれが加わる。「遊び」であるはずの野球を純粋に遊ぶことができたのは、当時のエリート候補だった旧制一高などの生徒たちだった。しかし彼らは将来は国家に奉仕することが期待されるエリート候補であるがゆえに、単純に「遊び」に耽溺することができない。この状況が19世紀末の武士道ブームと混ざり合い、勝利を至上とする求道的なプレイヤー像が生まれてしまうのである。

■野球に関する満載のトピック

 『文化系のための野球入門』に書かれているのは、もちろん野球に関するトピックだ。しかしこの「遊びを遊びのまま遊ぶことができないのか」「やるならのめり込まねばならないのではないか」という意識の問題に関しては、非常に普遍的なものがある。明治の日本、維新以前を知らないエリート候補の若者たちの間で「野球ガチ勢」とでも呼ぶべき人々が現れ、チャラチャラしたエンジョイ勢を駆逐して横浜の外国人チームに勝利するくだりの暑苦しさは、あらゆる競技や趣味に通底する厄介な問題だ。

 しかし一方で、戦前の日本に「野球エンジョイ勢の社会人組織」とでもいうべき集団がいたことも、本書では紹介されている。作家・編集者である押川春浪を中心としてできたスポーツ社交団体「天狗倶楽部」である。文化人とスポーツ選手がごちゃ混ぜになったこの天狗倶楽部は、野球を始めさまざまなスポーツを行なっていた。本書で紹介されているそのプレーはとにかくチャラい。勝てば調子に乗って大騒ぎし、負ければ負け惜しみを言ってまた大騒ぎし、自分のミスはコロリと忘れ、いいプレーができれば死ぬほど自慢するという天狗倶楽部のプレースタイルはとにかく楽しそうで、高校野球的ストイックさとは無縁。明治・大正期にこんなチームがあったのかと、大いに驚かされた。

 その後、太平洋戦争を経て野球が復活し、戦前とは大きく異なるプロ野球の興隆と同時に高校野球も復活し、野球アンチが憎むあの「日本的野球」のスタイルが固まっていく。この辺りの経緯については、本書を直に読んでもらったほうがいいだろう。あの「日本的野球」のスタイルは決して戦前から接続されたものではなく、むしろ「軍隊的なもの・国体的なものを否定しなくてはならない」という戦後ならではの事情と、敗戦によって行き場を失った日本人のマッチョイズムが合体した果てに生まれたものであるという論考は、説得力がある。

■野球自体は優しいスポーツ

 本書を読んで改めて気付かされたのは、野球それ自体はむしろ安全で平和でエンジョイ勢にも優しいスポーツであるという点だ。野球はそもそも牛飼いの女性たちがやっていたレクリエーションに端を発する遊びであり、サッカーやラグビーのようにプレイヤーの体が激しくぶつかり合うこともない。本来は女性や子供でも遊べる、戦闘性の低いスポーツなのである。

 しかしまた、「女性や子供でも遊べる、戦闘的でないスポーツ」「しかし実際に遊んでみると大変面白いスポーツ」であることが、野球とその周辺にさまざまなノイズを生み出すことになったようにも思う。それは19〜20世紀という時代ゆえの国家の戦略や国民の意識によるものでもあるし、男性たちが抱える「男らしさ」へのこだわりによるものでもあるし、プロとアマチュアの相剋という現在まで野球業界が引きずる問題によるものでもあるだろうが、とにかく野球の周辺にはノイズが多い。野球強豪校でのいじめや暴力事件にしても、多くはこれらのノイズが生み出したものなのではないか……というのが、本書を読んだ感想である。

 繰り返しになるが、野球それ自体には罪はなく、むしろ穏当で楽しいレクリエーションのはずである。そこに気がつくことができただけでも、この本を読んでよかったと思う。それどころかとても意外なことに、正直ちょっと改めて野球をやってみたい気持ちも生まれている。自宅の近所に「野球未経験で運動音痴の中年だけが集まった、ものすごくヘタクソなエンジョイ勢の野球チーム」があれば、ちょっと見に行ってみたい……。そんな気持ちにさせられる一冊だった。

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