ある日突然、もうひとりの自分が現れたら……? 藤子・F・不二雄SF短編ドラマ『俺と俺と俺』の異色性
『俺と俺と俺』のストーリーに話を戻そう。突然の出来事に頭を抱えていたふたりだが、その間に妻の和子が帰宅する時間になり、一方が家を出なければいけなくなる。家を出たほうの自分は同僚の沢井の家に転がり込み、一晩を過ごす。翌日、会社を休むことを沢井に告げ、沢井は会社で上司に「彼は発熱した」と話すものの、そこに家に残ったほうの自分が現れる。さっそく自分が複数いることの弊害が現れたわけだ。夕方に近所の公園で待ち合わせ、今後のプランについて話し合うが、先行きは甘くなさそうだ。
そして、話はこうした状況が生まれた、原因の探究へと移っていく。あの出来事が原因かもしれない。ふたりは謎のカギとなるであろう場所へと出発することを決め……。
上記の「もうひとりの自分」を描いた諸作品では、物語の早い段階で「自分ではない自分」が現れた理由は了解されるが、『俺と俺と俺』の場合は、その理由の種明かしこそが物語のミソとなる。そのため、上述したような「もうひとりの自分」よりも優位に立ちたい、という思いの欠落については、「もうひとりの自分」の出自がわからない以上、下手なことをするとふたりとも存在が消えてしまうというような懸念があったと言われればそれまでだし、そもそもそんな感情が生まれる余地がないほど切迫した状況にあったとも言えるかもしれない。しかし、なぜ「もうひとりの自分」が現れたのか、その理由がはっきりした時点においても、ふたりは相手を出し抜くようなことはしない。それどころか、自分が「自分たち」になったからこそできるプランを、積極的に模索し始めるのである。
上記の作品と比較しての、『俺と俺と俺』のもう一つの異色性は、視点の違いである。上記の作品はいずれも「一人称視点」を採用しているが、本作においては、ふたりのうちどちらか一方の視点が中心となるということはない。ふたりの視点が交互に採用される形となっており、ここからは一方の優位、もしくは対立ではなく、融和への志向が垣間見える。
ラスト、これから先に希望を見出し、手を組みかわすふたりの表情は晴れやかだ。「もうひとりの自分」を描いた藤子・F・不二雄短編作品のなかでも、『俺と俺と俺』は際立って楽観的なテイストの作品といえる。もちろん、そこにこそ藤子・F・不二雄の本質があるなどというつもりはなく、むしろ「もうひとりの自分」のさまざまなバリエーションを志向した結果として、本作の楽観性があり、いっぽうで複数の自分が消滅してしまう、『自分会議』にみられるような悲観性もあったというべきだろう。自分は「もうひとりの自分」とどう向き合えるか。『俺と俺と俺』をはじめ、こうした作品群に触れることで、読者もまた試されているように感じられてくる。
※なお、本稿では『俺と俺と俺』において「おれ」が「おれ達」になった理由自体は明かさなかったが、それはどちらか一方の優位性、もしくは正統性がはっきりと指摘できる性質のものである。にもかかわらず、そうした主張が作中でなされないことに、本作における藤子・F・不二雄の、融和や共生を重視する目線が読み取れるのである。