棚橋弘至、なぜプロレス界を超えた存在になり得たかーー転機となった2011年と中邑真輔の存在

■棚橋弘至と中邑真輔

  去る10.14、新日本プロレスの両国大会。このビッグマッチで、棚橋弘至が「2026年の1.4東京ドーム大会での引退」を発表した。つまり、棚橋が現役で戦う姿を見られるのは、もうあと1年ちょっとということになる。新日本プロレスという団体だけではなく、プロレス業界全体に大きな影響を及ぼした偉大なレスラーが、とうとう最前線を去るのだ。

  現在の棚橋は、選手兼社長として新日本プロレスの代表取締役社長を務めている。名実ともに新日本プロレスの顔である。1976年生まれでもうじき48歳。普通のスポーツ選手ならば現役を退いていても不思議ではない年齢だが、プロレスラーの引退のタイミングとしては早い方である。「棚橋は会場に行けばいつでも見られるしなあ」とか思っていたが、それもあと一年。こうして引退のタイミングを突きつけられると、マジかよ……という気持ちが湧いてくる。

  普段からプロレスを見ている人以外には、棚橋というレスラーがどういう存在なのかいまいちよくわからないかもしれない。「たまにバラエティ番組とか仮面ライダーとかに出てるゴツい人」くらいの理解でも全然構わないのだが、ではなぜ棚橋はテレビに出たり仮面ライダーの映画で怪人役をやっているのか。プロレスファン以外にもそれなりに知名度のある存在であるのはなぜなのか。そういった疑問をわかりやすく解消してくれる本が、柳澤健の『2011年の棚橋弘至と中邑真輔』である。

  タイトルの通り、この書籍では棚橋弘至の他にもう一人の主役として、現在はアメリカのWWEで活躍する中邑真輔が登場する。棚橋は1999年に新日本プロレス入りし、中邑は2002年に入門。3年違いでプロレス団体に入ったこの2人は、2000年代から2010年代というプロレス業界が激変した時期に活躍し、現在のプロレス業界の隆盛を築き上げた。

 2000年代以降のプロレスは、最悪の時期を迎えていたと言っていい。1993年に開始されたUFCは総合格闘技の大ブームを生み出した。1997年10月に開催されたPRIDE.1ではプロレスラーの高田信彦が柔術家のヒクソン・グレイシーに敗北。KOとタップアウトとコーナーストップのみで決着がつき、目潰しと噛みつきと金的以外はあらゆる攻撃方法が許されるというUFCのルールは、これまで日本のプロレス業界が頑なに守ってきた「プロレスは最強の格闘技である」という幻想を打ち砕いてしまった。

 『2011年の〜』は、あくまで棚橋と中邑という2選手を主役に置きつつ、この時期の新日本プロレスの混乱ぶりから丁寧に解説する。新日本プロレスの創業者であるアントニオ猪木は、プロレスラーであると同時に多くの異種格闘技戦を制したことから、この時期には「総合格闘技の開祖」というイメージも身につけることになった。2000年代前半にはプロレスを引退していたものの、創業者という点もあって新日本プロレスの経営にたびたび介入。現場を顧みないアイデアを次々に投入し、所属レスラーたちを疲弊させていた。この時期の猪木のメチャクチャぶりは本当に凄まじいので、ぜひ本書で確かめてほしい。

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