映画史本、映画関連書籍が膨大にある中で僅少なジャンルーー長き歴史を紐解いた新書を読む

■数は少ないけれど大作の多い映画史本

(左から)北野圭介(著)『ハリウッド100年史講義』(平凡社)と四方田犬彦(著)『日本映画史110年』(講談社)

 筆者は世間で「映画ライター」と括られる人種の範疇に入る。世間にどれだけの映画関係物書きが存在するのか想像もつかないが、ネットでも書籍でも映画に関する文章は無限に存在するのではと錯覚しそうなほどに多い。こっちからアクセスせずとも、GoogleやYahooが勝手にお勧めしてくるので、自らアクセスするまでも無いほど多い。

    さて、それらの映画関連文章だが、そういったものの圧倒的多数が「感想」または「考察」のどちらかである。映画ジャーナリストの宇野維正氏は映画興行分析のコラムを書かれているが、こういった例は珍しい印象で、多いのは感想、考察などの映画の内容そのものに関するものである。筆者がアメリカ映画の映画史を調査したいと思ったところ、そういった映画史に関する本は「これだけ映画関連の書籍があるのだから山ほどあるだろう」と予想していたが、筆者の予想は大きく間違っていた。

  そういった歴史に関して書かれた本は実に少なく、筆者が入手できたのは映画史に関するものは北野圭介(著)『ハリウッド100年史講義』と四方田犬彦(著)『日本映画史110年』ぐらいだった。これら二冊は、それぞれハリウッドと日本の映画史をまとめた良書である。今回は映画関連記事・書籍であまり取り上げられることのない映画史について綴っていきたい。

■映画誕生 映画の中心地は生誕地フランスからなぜハリウッドに移ったのか?

 そもそも最初の映画とは何か? これについては二つの説がある。「発明王トーマス・エジソンによるキネトスコープ式」が原初の映画説と、「リュミエール兄弟のシネマトグラフ方式」が初代の説である。多少、議論の余地があるが、基本的にはリュミエール兄弟が初代説が強い印象である。
 
 これについては根拠がある。キネトスコープ式が現代の上映方式から大きくかけ離れているからだ。キネトスコープはのぞき穴から動画を見る映画鑑賞装置で、現代的感覚でいう「映画鑑賞」とかなり趣が異なる。対して、シネマトグラフ方式はスクリーンに動く映像を映写する方式で、現代の「映画鑑賞」のやり方と連続性がある。そのため、「最初の映画」としてルイ・リュミエール監督『工場の出口』(1895)の名前が挙がることが多い。繰り返しになるが、多少の議論の余地が残しつつも、映画はじまりの地は、リュミエール兄弟の活躍したフランスであるとここでは定義する。(『ハリウッド100年史講義』の著者、北野氏も"慣例"として1895年に行われたリュミエール兄弟の上映会を映画のはじまりとしている)

  フランスはそういった事情もあり、もともと映画産業が盛んであり、今日でも国際市場においてある程度の存在感を持っている。近年だと『落下の解剖学』が2023-2024映画賞を賑わせた。では、映画の中心地はフランスなのだろうか? そう思う方はほとんどいないだろう。多くの映画ファンはアメリカのハリウッドが中心地と認識していることだろう。これについて異論をお持ちの方はゼロに近いのではと思われる。

  では、なぜアメリカなのか? アメリカはアメリカでもなぜ、最大都市のニューヨークではなく、ハリウッドなのだろうか? 先ほど、エジソンもキネトスコープ式という全く異なる方法で初期映画史に名前を刻んだ事実を提示したが、エジソンが自らの映画スタジオにして最初の映画スタジオ「エジソン・ブラック・マライア撮影所」を建設したのは東海岸のニュージャージー州である。アメリカの地理関係をご存じない方のために補足すると、ハリウッドがあるのは広大のアメリカ合衆国本土の全く反対側の西海岸である。

  実はその理由はエジソンにある。エジソンは偉大な発明家であると同時に、剛腕なビジネスマンでもあった。19世紀末から20世紀初頭にかけて、まだ映画の産業としての構造は不安定だったが、エジソン社は剛腕ぶりを発揮し、1908年に勢いのある映画会社9社を集めて映画に関する一切の特許関連を集中管理する「映画特許会社」を設立した。この特許会社が中心になってエジソン社が利するようにカメラ、フィルム、映写機すべてにライセンス制度を取り入れて制作から上映までの要所を抑え込もうとした。要はエジソン社による産業の独占である。

 当時の映画業界にはエジソン社の他にニッケルオデオンと呼ばれる小規模興行主たちが存在した。ニッケルオデオンは店先をやっつけ仕事で改造した上映ルームや、芝居小屋を無理やり広げた即席ホールで上映をしていた。吹けば飛ぶような小規模興行主だったが、入場料が5セントと格安だったため、庶民階級の間で絶大な人気を誇った。ニッケルとは5セント硬貨の通称であり、ニッケルオデオンの名前はそれに由来する。(本業の傍ら、筆者も小規模映画制作者をしているので、心情的にニッケルオデオンの肩を持ちたくなる)。

  こういった小規模興行主たちは、エジソンの支配する東海岸から逃れ、1908年ごろから西海岸のハリウッドへと移転し始める。そして野心的な興行主たちのもと、ハリウッドの映画産業は短期間で洗練されたビジネスへと進化していく。1900年代後半から1910年代にかけて、それまで10分から15分程度の短編が主流だった映画が長編化、興行主と制作会社が長期的な配給契約を結ぶことによる作品の安定供給など重要な変化が生じていく。ここに映画の都ハリウッドの礎が築かれた。

  さらに1914年には世界史における重要事件が発生した。第一次世界大戦である。歴史に残る悲劇だったが、この重大な歴史的事件はハリウッドの歴史においても重要な事件になった。それまで、アメリカ国内で上映される映画はフランス、イタリアからの輸入が多くを占めたが、ヨーロッパが戦地になったことでこれらの国のスタジオは制作を停止せざるを得なくなった。直接戦地にならなかったアメリカで映画産業は大きな伸びを見せることになる。第一次世界大戦を経て、世界の映画上映の8割がアメリカ産の映画を映画館にかけるようになる。アメリカ映画の輸出は1915年から1916年にかけて5倍に跳ね上がった。こうしてアメリカの映画産業は世界のトップになった。

 今日、映画の製作本数そのものはインド、中国に抜かれたものの今もって北米市場は最大の興業規模を誇る。ハリウッドは100年以上にわたって映画界の王者として君臨しているのである。

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