巨匠漫画家・ながやす巧、傑作『愛と誠』の裏にあったリアル純愛物語と画業60周年でも尽きぬ創作欲

■ちばてつや先生のような絵が描きたかった

――先生は長崎県出身、熊本県育ちとうかがっています。子どもの頃から、絵を描くことはお好きだったのでしょうか。

ながやす:熊本に行ったのは5歳の頃で、ちょうど台風が来て、大洪水の日だったのを覚えています。絵を描き始めたのは、物心ついたころからです。小学校に入って卒業するまで、絵の展覧会に出品して、特選とか金賞をもらっていました。写生会でもみんなが風景を描く中、木の枝を描いたりしていましたね。絵具は賞品についてくるので、買う必要がありませんでした(笑)。

――漫画も熱心に読まれていたのですか。

ながやす:子どもの頃から漫画は読んでいて、『鉄腕アトム』や『鉄人28号』が大好きでした。夢中になって読みました。工作好きで、小学生や中学生の頃は戦艦大和をボール紙で作っていましたよ。

福子:そして、主人は中学生の時、ちばてつや先生の『ちかいの魔球』、そして『紫電改のタカ』を見て泣いてしまったんですよ。このとき、漫画家になろうと思ったそうです。

ながやす:それからもう、ちば先生の作品に心酔しましたね。絵柄も表現も大好きですし、作品の清潔感や、真面目で誠実なところが素晴らしい。僕もあんな風に描きたいなと思いました。

――ながやす先生は、ちば先生への尊敬の想いを公言しています。『愛と誠』の最初に登場する子ども時代の誠を見ると、ちば先生っぽいタッチを感じますね。

ながやす:はい。僕はちば先生に憧れて漫画家になったので、『愛と誠』でも、ちば先生の絵はだいぶ参考させていただきました。

福子:主人は、困ったときはちば先生の本を見て、同じようなシーンがないか探して使っていました。よく見ると、『あしたのジョー』で見たような風景もありますし、早乙女愛と白木葉子が、同じアングルでそっくりだったりするんですよ。

――そうなんですか。後で探してみますね(笑)。

ながやす:でたらめもいいところですよね(笑)。でも、見て描いたというより、ちば先生が描いた女性が頭の中に入っているので、そうなってしまうんですよ。ちば先生が描く小さい女の子もかわいいですね。

福子:主人が描く女の子の基準は、ちば先生なんです。『ぶらりぶらぶら物語』に子どもが出てくるんですが、本当にかわいいですよ。

■ちばてつやの漫画は教科書

――私は『愛と誠』の登場人物のなかでは座王権太が好きなのですが、悪役として登場するのに愛嬌たっぷりで、ギャグ顔も面白くてかわいいですよね。作中で、もっともちば先生っぽい雰囲気が感じられるキャラだと思いました。

福子:そうだと思いますよ。権太は『のたり松太郎』の松太郎みたいなキャラなのです。わがままだけれど、どこか憎めない。私も権太は大好きなのですが、話が進むにつれて、どんどんかわいくなっていくのが魅力ですよね。

ながやす:最初は、お化けみたいな感じだったものね(笑)。

福子:主人は、ちば先生のようなキャラを描いてみたいと思って、かわいくしたのだと思います。権太がバラの花をくわえている絵があるのですが、その絵を見て、梶原さんがくすっと笑って「いいじゃないか」と言ったそうです。「ワイのお父ちゃんは政界の大物で黒幕や」と言うシーンにある、「赤、白、黒幕……」というセリフも、ちば先生っぽい感じを出そうと、主人が演出したのだと思います。一種の遊び心ですよね。

――ながやす先生にとって、ちば先生の作品はどのような存在なのですか。

ながやす:ちば先生の作品は、僕にとって教科書なのです。ちば先生の表現は素晴らしいんですよ。同じ顔をもう1コマ描いて、目だけ動かしてこっちを見るという表現があって、実にうまいなあ……とびっくりしました。

――ちば先生の作品と出合っていなかったら、絵柄も変わっていたかもしれませんね。

ながやす:全然違う漫画を描いていたかもしれない。小島剛夕さん、平田弘史さんのような、リアル系の絵に行っていたと思います。

福子:ちば先生の絵は、劇画じゃないのに、違ったリアルさがあります。ジョーの表情一つ見ても真に迫ってくるのが魅力ですよ。

■アシスタントを使わずに1人で描く

――『愛と誠』はながやす先生が23歳の時、連載が始まったそうですね。原作の梶原先生は大変なこだわりをもつ漫画原作者ですが、『愛と誠』の漫画家がながやす先生に決まった背景も知りたいです。

福子:梶原さんは、『愛と誠』はイメージに合う漫画家がいなくて、温めていた物語なのだそうです。ところが、主人の『その人は昔』を読んで、「こいつだ、こいつに描かせろ!」とおっしゃったそうなんですね。どうしても漫画家はながやす巧で、と指名されたそうです。そこで、編集長が話し合いに来たのですが、主人は別の漫画のネームを描いていたので、一度は断ったんです。でも、編集長は「ウンというまで来る」と言うんですよ。そこで、私は「ちば先生と同じ雑誌で一緒に連載できるし、梶原さんとの作品を結婚の記念のプレゼントにしてちょうだい」と主人にお願いしたのです。

――なんと!

福子:そしたら、「おまえがそう言うならいいよ」と「結婚の記念のプレゼントにする」と主人が言ってくれて、引き受けることになりました。

ながやす:結婚したばかりでしたからね。それに、ちば先生と一緒に載るというのは楽しみでした。

――『愛と誠』の誕生の裏には、リアル『愛と誠』のような純愛物語があったわけですね。最後まで描き切ったのは、ながやす先生の奥様への強い愛があったというわけですか。

福子:主人は苦しい時でも、「おまえにプレゼントする作品だから手が抜けない」と言っていました。だから、最後まで一コマも手抜きがないのです。

――ながやす先生はアシスタントを使わずに漫画を描くことで有名です。しかし、いくら若いとはいえ、週刊連載を1人でこなすのは想像を絶する大変さだと思いますが。

ながやす:(1人で描くのは)当たり前だと思っていたけれどね。アシスタントを使わないのは、人がいると集中できないからです。僕は、集中しないと描けないんです。ただ、忙しかったですよ。寝る時間がないのは当たり前だし、突っ伏して机で1~2時間寝ては、起きて、描いていましたから。その週の原稿が終わったら布団でぐっすり寝るのですが、起きるころには原作が届いているので、すぐに原稿に取り掛かっていました。

福子:だから、髭も髪の毛も伸び放題で(笑)。当時は練馬区の南大泉町に住んでいて、最寄りは西武線の保谷駅でした。それなのに、連載中は池袋駅には1回しか行ったことがなくて、しかもその1回はサイン会だったんですよ。ちゃんとした写真を撮る時間もなく、近所の洋品店で買った服を着た写真しか残っていないんですよね。

ながやす:その頃は髪の毛もありました(笑)。忙しかったし、皮膚も弱かったので、髭は剃らないでそのままだったのです。

マンションのベランダで撮影された、20代のながやす巧の貴重なスナップ。なんと上着は奥様の服なのだそうだが、違和感なくビシッときまっている。写真提供=永安福子

――ながやす先生、さすがにつらい時はアシスタントを頼んでくださいよ(笑)! 奥様も心配だったのではありませんか。

福子:私は主人が少しでも寝られるようにと思い、枠線、消しゴム、ベタまでは手伝っていたんですが、これなら誰でもできるんです。でも、絵は主人しか描けないですから。一度だけ、『牙走り』という作品を描いている時に編集さんが「ゴールデンウィーク前で締め切りが繰り上がったので間に合わない」と言って、神保町の旅館までタクシーで連れて行ったことがあるんですね。旅館には2人の漫画家さんが助っ人に来てくださっていて、背景を手伝ってくださったのですが、絵柄がまったく違う。完成した原稿を見て、「申し訳ない、手を入れさせてもらいます」と言って、ホワイトで背景を塗り潰して全部描き直していました。全部最初から一人でやったほうが早かったと思うのですが。

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