「怒りや傷つきをそのまま表明しても伝わらない」 『「コーダ」のぼくが見る世界』著者・五十嵐 大インタビュー

五十嵐 大『「コーダ」のぼくが見る世界――聴こえない親のもとに生まれて』(紀伊國屋書店)

 2024年9月公開映画『ぼくが生きてる、ふたつの世界』の原作者である五十嵐 大氏による最新エッセイ『「コーダ」のぼくが見る世界――聴こえない親のもとに生まれて』(紀伊國屋書店)が、8月2日に刊行された。

 「コーダ」とは、聴こえない/聴こえにくい親のもとで育つ、聴こえる子どものこと。ときに手話を母語とし、ときにヤングケアラーとみなされるコーダは、ろう者とも聴者とも違うアイデンティティをもち、複雑な心を抱えて揺れ動く。

 『「コーダ」のぼくが見る世界』著者の五十嵐 大氏に、本書の執筆に際して意識したことや、ろう者が登場するドラマなどのコンテンツに対する考え方を聞いた。(編集部)

コーダの僕だからこそ気づけること、伝えられることがあるかもしれない

五十嵐 大 氏

――コーダ(CODA)とは「Children of Deaf Adults」。ろう者難聴者の親をもちながら自身は聴こえる子どものことだと、本作の冒頭に書かれています。五十嵐さんはこれまでも、ろう者であるご両親や、コーダとしての自分についてエッセイを出版されていますが、今作はとくにどのような意識をもって書かれたのでしょう。

五十嵐大(以下、五十嵐):コーダについて書きませんか、と言われて連載を始めたときは、そもそもコーダとはどういう存在なのか、「あるある」のエピソードをまじえて紹介することで、読者に理解してもらえるといいなと思っていたんです。でも、あたりまえですけど、コーダというのはその人のもつ属性の一つであって、僕が経験してきたことや感じたことが、すべてのコーダに共通しているわけじゃない。「コーダはこういう存在なんですよ」と僕の個人的な体験に基づいて紹介するのはひどく乱暴なことなんじゃないかと考えるようになりました。

――あまり知られていないからこそ、五十嵐さんの語ることを基準に認識する人も多いでしょうからね。

五十嵐:その怖さを、改めて感じました。それでも、僕の体験がコーダであるという属性に紐づいていることは確か。だとしたら、あくまで僕自身が、コーダであるという身を通じて感じたこと、たとえば納得できない、考えなきゃいけないと思っている社会問題について意見を述べることで「みなさんも一緒に考えてみませんか」と投げかけられるような本になったらいいな、とおもったんです。

――手話歌についての章がありました。私も小学校の授業の一環で、当時はやっていたポップスの歌詞を手話で覚えたことがありますが、そこにどんな問題が孕んでいるかを知り、はっとさせられました。

五十嵐:よかれと思ってしていることなので、なかなか問題が気づかれにくいんですよね。僕も、昔は肯定的にとらえていました。それで手話が広まるならいいことだ、って。ろう者が登場するドラマについても同じです。当事者が起用されなくても、まずは存在を認知してもらえるんだから、って。でもろう者の友達に話を聞いたり、SNSの反応をみたりしていると、拒絶反応を示す人が少なからずいる。どうしてなんだろう、と一つひとつ理由を分解していったら、「よかれと思って」の善意で踏みにじられてきたものがあまりに多い、ということに気づかされたんです。

――善意だからこそ、反発をくらったときに、尊重しようとしていたはずの相手に対して怒りが芽生えるってことも、ありますよね。自分も絶対、いろんな場面で誰かを踏みにじってきたのだろうなと、読んでいて怖くなりました。

五十嵐:僕もです。書きながら「お前が言うなよ」って、もうひとりの自分からいつも突きつけられている感じがして、書くのがとても怖かった。でも、なんでそれがだめなのか、どんなふうに当事者を傷つけるのか、コーダの僕だからこそ気づけること、伝えられることがあるかもしれない。その可能性を信じ、だったら書かなきゃいけないな、と思いました。たとえば作中にも書きましたが、聴覚障害者がロープウェイに乗車拒否されてしまったことがあったんですよ。聴こえない人だけで乗せることはできない、と。安全性を担保できない、といわれたら確かにそうだなと思ってしまいがちですが、本当にそうだろうか?ということを突きつめて書いたほうがいいのかもしれない、と。

悔しくてつらい想いをする若い人たちが一人でも減ってほしい

――聴こえないんだからしかたがない、とあたりまえのように諦めさせることの残酷さが、今作を読んでいると痛いほど伝わってきます。そしてそういう現実は、ろう者難聴者の子どもたちに未来を諦めさせることにもつながるんだ、という指摘にもはっとしました。

五十嵐:ろう者を描くドラマや映画で問題になるのは、演じる人たちが当事者ではないということ。その批判を受けると、ほとんどの人が「だって当事者の俳優がいないじゃないか」というんですよね。ろう者の俳優がいないのだからしかたない、いたとしても有名じゃないんだからって。でも、それって、ろう者の責任ではないんです。そもそもこれまでは、ろう者にとって、俳優になる道なんて開かれていなかったのだから。ろう者に限らず、障害のある人たちが、エンタメ業界で表に立つのが難しいという現実がある。そしてその現実は、受容してこなかった社会、つまり健常者と呼ばれる人たちに責任があると僕は思うんです。

――五十嵐さんのお父さまも、本当は天文学者になりたかったのに、大学進学はむりだと反対されてあきらめざるを得なかった、と本書にも書かれていました。

五十嵐:今ほどテクノロジーが発達していなかったとはいえ、はなから無理だと決めつけられて、挑戦すらさせてもらえない。ろう学校の専科に進んで、理容師になるか木工職人になるか、くらいの限られた選択肢しかなかった父のことを思うと、やっぱり、ひどい話だなと思ってしまう。もし現代のように、ノートテイク(手書きまたはパソコンで授業の内容などをリアルタイムで伝えてくれる取り組み)などのサポート体制が大学にもある時代に父が生まれていたら、どんな人生を送っていたのだろうと。しかたないで済ませられ、悔しくてつらい想いをする若い人たちが一人でも減ってほしい。エンタメ業界に限らず、世の中がそういう方向に変わってほしい、と書きながら強く感じました。

――お金がかかるとか、人手がかかるとか、いろんな問題はあると思いますが、小さなところから少しずつ変えていくことはできるはずですもんね。

五十嵐 大『ぼくが生きてる、ふたつの世界』(幻冬舎)

五十嵐:一朝一夕にうまくいくわけがないことは、僕も分かっているんです。僕が書いた『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』というエッセイが『ぼくが生きてる、ふたつの世界』というタイトルで映画化されて、当事者の方々も出演されることになったのですが、主演の吉沢亮さんはおそらくコーダではないんですよ。そのことを残念だとおっしゃる方々も少なからずいる。

――そういうとき、さすがに主演はしょうがなくない?と思ってしまいそうになることに、本書を読んだあとでは歯止めがかかります。

五十嵐:ありがとうございます。でも、吉沢さんがコーダ役を引き受けてくださって、僕は本当に感謝しています。コーダについて、まだまだ知られていないなかで、人気も知名度も実力もある吉沢さんの力をお借りすることで、コーダという存在がより広く知られるじゃないですか。実際、内容にかかわらず吉沢さんが出演するから観る、というファンの方が、コーダという存在を知って興味をもたれているのをSNSでも見かけますしね。そんなふうに、ちょっとずつコーダのことが理解されていって、世の中がやさしくなっていってくれたらいいなと願っています。

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