ナムコが生み出したBGM、スーパーマリオブラザーズの楽曲分析……ゲーム音楽の誕生とその技法に迫る2冊

 昨2023年4月、テレビゲーム『スーパーマリオブラザーズ』の「地上のテーマ(地上BGM)」が、アメリカ議会図書館の全米録音資料登録簿に登録された。この「将来にわたって保存すべき米国の録音資料」のリストにゲーム音楽が登録されたのはマリオが初めてである。作曲は任天堂でサウンド担当を務めていた近藤浩治。日本人が登録されたのも初めてのことだ。

 2022年には、『星のカービィ スーパーデラックス』のBGMのひとつ「メタナイトの逆襲」のビッグバンドアレンジに対してグラミー賞が贈られた。ゲーム音楽のカバーに特化したThe 8-Bit Big Bandによる演奏で、「最優秀インストゥルメンタル/アカペラ編曲賞」部門での受賞である。

Meta Knight's Revenge - Fusion Big Band version ft. Button Masher GRAMMY WINNER 2022

 サンダーキャットやフライングロータスのようにゲーム音楽からの影響を重要視し公言するミュージシャンも現れているし、もう少し遡れば、ゲーム音楽を追った2014年のドキュメンタリー『Diggin' in the Carts』(「carts」はゲームカートリッジのこと)あたりから下地が整ってきて、これまでの「好事家の愛好するニッチなサブジャンル」といった認識に、そこそこ大きな更新が加わってきたように見える。

The Rise of VGM | Diggin' in the Carts | Red Bull Music

 その証拠に…とあげられそうな本が昨年続いたので、今回はそれらを見ていくことにしたい。

ゲーム音楽と邦楽史のミッシングリンク

鴫原盛之『ナムコはいかにして世界を変えたのか』(Pヴァイン)

 鴫原盛之『ナムコはいかにして世界を変えたのか』(Pヴァイン)の副題は、「ゲーム音楽の誕生」である。

「ええ、ナムコなの? 言われればそうか」というのが、本を見てまず思ったことだった。評者は『スペースインベーダー』からリアルタイムでアーケードゲームやファミコンに接してきたものの、ナムコをゲーム音楽の開祖と考えたことがなかったので意外だった。ある時(具体的には『ドラクエV』)を境にすっかりゲームに醒めてしまい、文化として考えてこなかった不見識のせいだ。

 ともあれ鴫原は、「ナムコは、今日まで続くゲーム音楽の歴史において、非常に大きな役割を果たしている」「ゲームの歴史を顧みるのであれば、ナムコ作品は絶対に避けて通れない」と断言し、ナムコを基準点にゲーム音楽の歴史を描くことを試みている。

 その論拠を拾い上げると、以下の4点に求められる。章立てもおおむねこの要約に沿っている。

①ビデオゲーム参入当初からオリジナリティにこだわり、プレイ中にオリジナルのBGMが流れ続けるゲームをいち早く開発したこと。
②音楽専用のカスタムICを開発したこと。
③音楽専門の社員をコンポーザーとして初めて採用したこと。とりわけ「ゲーム音楽の父」と呼ばれる作曲家・大野木宣幸を輩出したこと。
④ゲーム音楽市場を作り出したこと。

 ビデオゲームの歴史は、史上初のアーケードゲームである『コンピュータースペース』(1971年)と『ポン』(1972年)から書き起こされることが多い。前者を開発したノラン・ブッシュネルとテッド・ダブニーが興したのがアタリ社であり、同社初の商品である『ポン』は大ヒットした。『コンピュータースペース』にも『ポン』にも音楽はついておらず、効果音があるだけだった。『ポン』を真似ることから始まった日本のゲームメーカーでも事情は同じだった。

 効果音はやがてファンファーレやジングルに発展し、ありものの音楽が流用されるようになる。既存曲はゲーム中のBGMとしても使われだし、次いでオリジナルのシンプルな旋律がBGMに近い役割を担いはじめる。

 ここで面白いのは、「プレイ中にBGMが流れるスタイルは、日本が定着させた文化ではないか」という指摘が紹介されていることだ。指摘したのはゲーム音楽史/ゲーム史研究家の田中治久である。

 転機となったのは、タイトーが1978年に発表した『スペースインベーダー』だとされる。迫り来る敵(エイリアン)の動きに合わせた「ど・ど・ど・ど(C♯-B-A-G♯?)」という下降する4音のループが、サウンドエフェクトなのかBGMなのか、議論が分かれるところだが(鴫原はSEの連続再生音だと解釈している)、ビデオゲーム黎明期にはSEやジングルとBGMとの境界が想像以上に未分化だったことがうかがえる。

 オリジナルにこだわっていたナムコにしても、『ギャラクシアン』や『パックマン』など革新的なSEやジングルを備えたゲームを立て続けに発表していたものの、それらが発展してBGMとなったわけでは必ずしもなかったようだ。『ラリーX』(1980年)でナムコはゲーム中BGMを初めて採用したが、作曲したデザイン課課長だった甲斐敏夫は鴫原の取材にこう語っている。

「走行音とかだけでは単調だよね、BGMもあったほうがいいよね、みたいなノリで決めた気がする」

 『ラリーX』は翌1981年に『ニューラリーX』へアップデートされ、BGMも差し替わった。これが画期だった。この新BGMが当時のゲームマニアに与えた衝撃を、鴫原はこう記している。

「筆者もそうだが、この曲を聴いたことがきっかけで「ゲーム専用のオリジナル曲があるなんて!」と、ゲーム音楽の存在そのものを認識したプレイヤーは全国各地に数え切れないほどいたことだろう」

 前出の田中治久も『ニューラリーX』を「ゲームにおけるBGMの存在を鮮烈かつ圧倒的に印象付けた、史上最初のゲームだ」と位置づけている(『チップチューンのすべて』誠文堂新光社)。

 この新BGMを作曲したのが、本書で「ゲーム音楽の父」と称えられている大野木宣幸である。『マッピー』『リブルラブル』『メトロクロス』…と並べれば、あれもこれも大野木曲だったのか!と膝を打つ人が往年のゲームキッズには少なくないだろう。

 個性的で愛すべき変人だった大野木の人物像については鴫原が敬愛を込めて詳述しているので、ここでは簡単なプロフィールに留めよう。

 ナムコへの入社は1980年、プログラマとしての採用だったが、カシオトーンをいじる姿を見かけた社長に「お前がやれ」と言われ作曲担当となったそうだ。何とも大らかで適当な時代だ。85年にナムコを退社し、『ゼビウス』で知られる遠藤雅伸らと株式会社ゲームスタジオを設立。翌86年には同社の音楽専門の兄弟会社として設立されたデジタル・エンターテインメント・カンパニー(後にサイトロン・アンド・アート)の代表取締役となった。移籍後の大野木は、ゲーム音楽アルバムのプロデューサーとしても活躍したが、2000年代前半にゲーム業界から去り、2019年に死去した。

 「④ゲーム音楽市場を作り出したこと」に関して重要なのが、サイトロン・アンド・アートだ。ゲーム音楽市場を準備したのは、細野晴臣の監修でナムコの音源をレコード化した『ビデオ・ゲーム・ミュージック』と『スーパーゼビウス』(ともに1984年)で、アルファレコードからリリースされた。アルファレコードのプロデューサーは小尾一介(おび・かずすけ)だった。小尾はその後、アルファ内にゲーム音楽専門レーベル「G.M.O.レーベル」を立ち上げ様々なゲームメーカーのアルバムを手掛けたのち、アルファを退社し、遠藤雅伸や大野木宣幸に合流してデジタル・エンターテインメント・カンパニーを創設する。「ゲーム音楽アルバムの父」と呼ばれるゆえんである。「G.M.O.(Game Music Organization)」が「YMO」を踏まえたものであることは言うまでもない。

 本書には書かれていないが、小尾はそもそも川添象郎の「でっち」をしており、その縁からアルファレコードに入社しYMOなどを手掛けることになったそうだ。(参考:“ゲームミュージックの父”小尾一介氏が見極めた,時代の変化とデータの流れ)YMO散開と前後して細野晴臣、高橋幸宏とYENレーベルを立ち上げたのも小尾で、『ビデオ・ゲーム・ミュージック』等は同レーベルからのリリースだった。小尾の軌跡は音楽に留まらず実に興味深いもので、小尾を中心とするゲーム音楽市場誕生から発展のプロセスを見ることには、邦楽史のミッシングリンクが埋められていくような快感があった。

関連記事