ミステリの女王、アガサ・クリスティー関連本が立て続けに出版 書評家・千街晶之のおすすめ3選は?
カーラ・ヴァレンタイン『殺人は容易ではない アガサ・クリスティーの法科学』(久保美代子訳、化学同人)
紹介する3冊目は、カーラ・ヴァレンタイン『殺人は容易ではない アガサ・クリスティーの法科学』(久保美代子訳、化学同人)である。著者は解剖病理技師で、かなりのミステリファンでもあるようだ。
クリスティーは看護師や薬局勤務の経験があることから毒物の知識が豊富で、従って作中でも毒殺が多いが(デビュー作『スタイルズ荘の怪事件』からして毒殺事件だったし、『そして誰もいなくなった』の毒殺シーンなども印象深い)、この本は、毒物のみならず指紋、弾道、筆跡、血痕など8つのテーマを通して、クリスティー作品における法科学の扱い方を分析している。そこから浮かび上がるのは、犯罪捜査の最先端の知識を取り入れるのに貪欲なミステリ作家の姿だ。
例えば、作中における銃器の描かれ方は、『秘密機関』のような初期作品では不正確なところもあったが、後の作品ほど次第に専門的になってきている。また、クリスティーは生々しい流血の描写を嫌っていたというけれども、『マギンティ夫人は死んだ』ではその数年前に登場したルミノール反応について言及するなど、血液が犯罪捜査で果たす役割を常に重視し続けた。心理分析を武器とする名探偵のイメージが強いポアロやマープルが、鑑識キットを持参するなど意外と微細な物証も重視していたことを指摘するくだりには意表を衝かれた。
この本の面白さは、クリスティー作品の研究という本筋からちょっと脱線した部分にもある。作中で言及されたり、あるいは作品内容と関連していたりする現実の犯罪についての知識が大量に披露されているのだ。中には『オリエント急行の殺人』の元ネタとなったチャールズ・リンドバーグ・ジュニア誘拐殺人事件や、アル・カポネが敵対するギャングらを殺害させた「聖バレンタインデーの虐殺」などの有名犯罪もあるが、一般的な日本人にとっては聞いたこともないようなマイナー事件も多く、それらの中には、屋敷の女主人の歓心を買おうとした執事による自作自演の強盗事件など、ミステリ小説めいたトリッキーな犯罪もある。ピーター・ラヴゼイのミステリ小説『偽のデュー警部』でもお馴染みのクリッペン事件(医師のクリッペンが妻を殺害したとされる事件で、クリスティーの約15作品で言及されている)に関して、今世紀に入って判明した新事実には驚かされる。
なお、医学雑誌「BRAIN and NERVE」2023年12月号(医学書院)の特集は「アガサ・クリスティーと神経毒」であり、クリスティー作品で使われた14種類の毒物について専門家たちが寄稿している。そこからは、クリスティーの毒物に関する知識が、専門家の目からもかなり豊富かつ正確なものであることが伝わってくる。『殺人は容易ではない アガサ・クリスティーの法科学』と併せて読んでほしい。