追悼・伊集院静 放送作家・澤井直人が生きる指針と定めた、「優しさ」と「寄り添い」の流儀

  伊集院静さんが亡くなった。

  それはオンラインでディレクターさんとロケの構成台本を詰めていたときのことだった。ネットニュースがスマホ画面に飛び込んでくる。頭が真っ白になった。ディレクターさんの質問に詰まってしまい、そこから声が出なくなってしまった。

  コロナ禍に妻が、「伊集院静さんの本読んでみたい」その一言から伊集院さんの書籍を購入。私も一緒に読み始めると、そこから、ずるずると伊集院さんの作品に没頭していった。何故、ここまで伊集院さんの作品が自分の中にスッと浸透してきたのか? それは、伊集院さんのエッセイ『大人の流儀』の中に、弟さんの海難事故についてのお話が書かれていたからだと思う。前妻の夏目雅子さんを若くして亡くされたお話は、以前からテレビで観て知っていたが、弟さんの話は初見であった。

  伊集院さんが20歳の頃、父の家業を継ぐことに反発し、激しい喧嘩のすえ実家を飛び出していたころのことだった。17歳の弟さんは、台風が近づく海にボートで漕ぎ出して遭難された。「生きて帰ってきてくれ。弟の命が助かるのなら、俺の体の半分くらいは天にくれてやってもいい」と願ったが、ついには叶わなかった。

  10日後に遺体が見つかった。私にも、同じような出来事がある。

  2018年のゴールデンウィークの最終日のことだった。東京で放送作家の仕事をしている私は日々の作業に忙殺されていた。5つ年下の妹から、「あっちゃんが行方不明になったみたい」LINEが送られてきた。最初は「冗談だろ。どうせすぐ見つかるだろ」軽い気持ちでいた。急いでテレビをつけてみると、「澤井惇史さん(26)が5月3日椹島ロッジから千枚岳~赤石岳方面に登山に向かいましたが、下山予定日の5月6日になっても下山せず、行方不明となっています。 身長172cm、痩せ型、オレンジ色ヤッケ、青色リュックが特徴です」と放送をされていて、そのときはじめてことの重大さに気付いた。

   私も急いで静岡行きの新幹線をとろうとしたが、母親から「直人はとりあえず来ても混乱するだけだから、待機しておいて」そう言って静岡には行かせてもらえず、東京の自宅で連絡を待つだけの時間を過ごした。両親が静岡で捜索しているのに、自宅で何も出来ない不甲斐なさ。知り合いの山岳経験者に話を聞いたり、遭難したときの発見される場所を過去のニュースから調べたり、そうすることが精一杯だった。自分の無力を感じた。

  弟が遭難してから静岡県では雨が続いた。弟の捜索は一週間続いた。それでも形跡ひとつ見つからない。そして、消防隊が動いて下さる最終日「弟さんは見つかりませんでした」との連絡が届いた。両親は、その後も山岳隊に捜索を依頼し続けたが1日につき莫大な資金がかかり、金銭の限界もやってきた。何もすることが出来なかった私は、部屋の中で声を荒げた。完全に心が破壊された。

  そして、あの5月から3ヶ月が経った2018年の夏。「弟が登った道を歩きたい」と母親と叔父さんと3人で静岡県の赤石岳を登った。「弟はこの道を歩いていたんだ」そう噛みしめながら、一歩一歩土を踏みしめて山頂まで必死で登った。一歩踏み間違えれば、崖の下に落ちてしまう、

  険しい道がとても多かった。

  そして、2日かけて、山頂に到着した。後になって、弟がこの山頂で他の山岳家の集合写真に見切れて、映っている写真が出てきた。「この綺麗な景色を弟も見たんだな」心が少し安堵した。家族から預かった弟へのお手紙を山頂の上から投げてきた。その瞬間、それまで鍵のかかっていた感情が爆発して、涙が溢れてきた。

あの日から、母親はずっと「将来は惇史が眠っている静岡の地で死んでいきたい」と言っている。伊集院さんは、エッセイの中で人の死に対してこう言っておられる。

「君と同じ立場の人間がこの世の中に何人もいて、その哀しみを乗り越えて生きていることを忘れないで欲しいんだ弟の時も、前妻の時も、私は星座を何度も見上げて、生還させて欲しいと祈った。今は安らかかと尋ねる。死の数年は、弟、妻を不運と思っていた。今は違う。天命とたやすくは言わぬが、短い一生にも四季はあったと信じているし、笑ったり、喜んでいたり表情だけを思い出す。敢えてそうして来た。それが二人への生の尊厳だと思うからだ。彼等も、そして私も、不運とは思わなくなった。不運ではなく、そういう生だったのだ。不運と思っては、哀し過ぎるではないか。不運と思うな。そう自分に言い聞かせて、今日まで来ている」

  伊集院さんの弟さんが、「将来は冒険家になるんだ!」と言っていたように、弟は、大人になってから“山登り”という“好き”に出会った。暇があれば、「次はあそこの山に登に行くねん。楽しみやわ」と実家に帰ったとき、おばあちゃんにそう言っていたのを鮮明に覚えている。そして、弟には...当時、結婚するはずの交際相手がいた。私は直接会えてはいないが、母親や妹からは、人間の出来た素晴らしい方だったと聞いている。

 弟の恋愛はそれまで何ひとつ聞いてこなかった。「惇史にも本気で愛した相手がいたんだ」
同棲していた婚約者の彼女は、弟が帰ってこなくなった部屋にその後もずっと住み続けていたと聞いた。

  伊集院さんも亡くなってから自宅で見つけた弟の日記を読んでいると、人並みに恋愛はしていたし、生きている時間は輝かしいものであったことが記載されていたという。「ふたりで過ごした時間は、本当に良い時間だったんだ」伊集院さんの言葉を読んでから、そう思えるようになっていた。

  弟が住んでいた部屋から出てきた山岳道具が、今もそのままの状態で実家の2階に置かれている。子どもの頃から一緒の部屋で毎日生活していた弟とくだらない話で笑い合って時間がそこに帰ると思い出される。この話をしたのも、同じような思いを他の人たちにして欲しくないという思いからだ。

  伊集院さんの訃報を聞いた翌日、私は特急に乗って東北へ向かっていた。伊集院さんが終の棲家にされたのも仙台だった。あの東日本大震災で被災も経験され「震災」に抱く思いは誰よりも強かった。不思議な話だが東北に向かっていたのは福島での“復興庁”のお仕事だった。

  家族の「死」と、残された者がもがきながら前に進もうとする「再生」への意思を、東北の人たちの言葉のひとつひとつから感じ取れた。それは、伊集院さんが人生を通じて大切にされていたことと同じだった。

  職を失い地元に返ろうとする何者でもない若者を逗子のホテルに7年余りタダでで住ませてくれた“なぎさホテル”の支配人。前妻を亡くし、自暴自棄になっているときに旅打ちに連れ出し、作家としての基盤を形成してくださった色川武大さん。

  伊集院さんはそうした人の優しさやぬくもりによって破壊された自分が再生されてきたことを、生涯をかけて下の世代に伝えてこられてきたように思う。亡くなってから各所から出てくる伊集院さんとの思い出話を読むと“人のことをよく見ていて、気にかけている”エピソードがとにかく多い。

  列車は、東北に入っていた。終着駅のいわきに着き、外の空気を吸うと、伊集院さんが眠る仙台に少しでも近づけたことに安堵していた。あのとき弟が眠っている赤石岳に登ったときの時間のように。

  伊集院静さんと会うことがこの連載のゴールだった。それはもう、叶わない。しかし、伊集院さんが大切にされてきたのは「人✕人として賢明に接し、寄り添う」“ザ・にんげん”という生き方。私はそれを受け継ぎ、次の世代に繋いでいく役目があると勝手に思っているし、自分のゴールとしたい。

  奥さんである篠さんの最後の言葉は「人が好きで」だった。 伊集院さんはこれが全てだと。長い旅に出られても、私は伊集院さんの幻影を追い続けます。

 伊集院さんの言葉には、「小説は哀しみにくれる人を救うことはできない。ただ、寄り添うことはできる」とあるが、僕は、伊集院先生の作品に寄り添ってもらえました。

  ありがとうございました。心から哀悼の意を表します。

澤井直人

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