「マンガとゴシック」第13回:「河童の斬られた片腕」の謎——水木しげる『決定版 日本妖怪大全』

怪奇幻想派にしてコレクター

  水木しげるが英米の怪奇幻想文学の熱心な読者であり、それらを翻案した作品を多数描いていることは比較的よく知られている。「地獄の足音」はH・P・ラブクラフトの「ダンウィッチの怪」、「魔石」と「つぼ」はW・W・ジェイコブズの「猿の手」、「怪木」はジョン・コリアー「みどりの想い」、「約束」はタイトルそのままにアルジャーノン・ブラックウッド「約束」、「化烏」はウィリアム・ホープ・ホジスン「闇の声」、「妖棋死人帳」はナサニエル・ホーソーン「ラパチーニの娘」、「花の流れ星」はアーサー・マッケン「白い粉薬のはなし」……などなど元ネタを挙げればキリがない。『水木しげる貸本モダンホラー』(太田出版)のようなアンソロジーが出るのも、こうした水木の怪奇幻想趣味があればこそである。

  文学作品のみならず、オディロン・ルドンやヴィクトル・ユゴー(文豪だが絵が達者だった)といった西洋のダークでおぞましい幻想絵画からも数多くの引用を行っていることから(端的にルドンの一つ目なくして目玉おやじなし!)、水木をゴシックな怪奇幻想派として位置づけることはそう難しくないだろう。「マンガとゴシック」連載的にはエロイムエッサイムの呪文、魔法陣、カバラなどで名高い『悪魔くん』など取り上げるべきなのかもしれない。連載第6回で取り上げた古賀新一『エコエコアザラク』も、やはり『悪魔くん』のエロイムエッサイムなくしてあり得なかったと思う。

  しかし世間的に水木と言えば「怪奇幻想」という括り以上に『ゲゲゲの鬼太郎』に代表される「妖怪マンガ」の人であり、自分の趣味丸出しでもっと言ってしまえば、マンガと並行して描き続けた夥しい妖怪画にこそ水木のスピリットをビンビン感じるのだ。今夏熟読した『決定版 日本妖怪大全——妖怪・あの世・神様』(講談社文庫)に私はドギモを抜かれてしまった。総数895体(!)の妖怪をそれぞれ一ページ(絵+解説)でコンパクトに次々紹介しさる、文庫にして900ページを超えた「上等の枕にもなる!」(水木しげる帯文)大著である。

  これだけの量の妖怪を水木が蒐められたのは、そもそも彼が稀代のコレクターであるからだろう。マンガの資料として作成された膨大なスクラップブックに始まり、世界中の妖怪グッズを蒐集した自宅の妖怪ミュージアムまで、それは生涯変わらない奇癖であった【図1】。妖怪は基本「見えない」ものであるが、「見える」ものにしたのが水木であり、それはコレクター特有のオブジェ嗜好(モノとしてほしい)があったからと思われる。

  はたから見ればガラクタにしか思えないようなオブジェでも兎にかく集めまくる姿勢は、うんこや泥を「黄金」のように大切にしてこねくり回す幼児と変わらない、という意味でフロイトの言う「肛門期固着」に水木は属していた(デヴィッド・クローネンバーグを筆頭に、一流のアーティストは多かれ少なかれこの特性をもっている)。水木がなぜあれほど執拗に「屁」や「うんこ」を描きたがるのかもこれで説明がつくだろう。「永遠の反抗期」ならぬ「永遠の肛門期」(!)こそが水木しげるなのである。

図1 調布市にある水木しげるの自宅倉庫に蒐集された世界の妖怪面と妖怪人形
出典 『別冊家庭画報 妖怪まんだら 水木しげるの世界』(世界文化社、1997年)、74-75ページ。

妖怪大戦争——博物学VS「その他大勢」

  水木しげる『決定版 日本妖怪大全』には先駆的作品がある。狩野派に学んだ絵師で、浮世絵師の喜多川歌麿の師として知られる鳥山石燕(とりやま・せきえん、1712-88)の代表作『画図百鬼夜行』がそれである。半丁(一ページ)ごとに一種類の妖怪が描かれた江戸の妖怪図鑑で、たいへん好評を博した結果三つの続編が出た。『画図百鬼夜行』四部作に描かれた妖怪の総数は203種で、江戸時代で最も妖怪を描いた書物とされている。水木がこの石燕に最大級の賛辞を捧げていることは、ファンならよくご存じかもしれない。

  「百鬼夜行」とは言うものの、平安時代の絵巻に見られるような夥しい妖怪行列をなしていないばかりか、各妖怪は一ページに別個に囲い込まれ、名付けられ、言語(説明文)が付されて分類されている【図2】。要するに石燕の妖怪画には、近代的理性たる「博物学」の分類的思考/嗜好が濃厚に出ているのである。香川雅信の名著『江戸の妖怪革命』(角川ソフィア文庫)の言い方に倣えば、江戸時代に入って妖怪はミシェル・フーコー言う所の「表(タブロー)」の平面世界に組み込まれ、飼い慣らされたのだ。妖怪はもはや土地に根差した恐怖の対象などではなくて、土地から根切りされた「情報」として流通し、娯楽と蒐集の対象となった。妖怪のキャラ化、もっと端的に元祖ポケモンの誕生である。

図2 鳥山石燕の描く輪入道。妖怪と解説が一丁(一頁)にコンパクトに収まる。
出典 鳥山石燕『画図百鬼夜行 全画集』(角川ソフィア文庫、令和5年32版)、96ページ。

  しかし、かつて妖怪は分類不可能なものだった。例えば鎌倉初期の『宇治拾遺物語』の百鬼夜行に関する記述を見てみると、「さまざまなり」と鬼たちのイメージは曖昧で多種多様であり、「いかにも言うべきにあらぬ」「えも言わず」などその異様な様子は形容不可能とされている。つまり妖怪は言語によって分節不可能な混沌そのものであり、百鬼夜行の「百」とは無秩序そのものの過剰さに対する驚きを意味した。これが石燕の『画図百鬼夜行』になると、「百」は「これだけ蒐めたぞ!」というポケモンGET的コンプリートのしるしになるのである。水木しげるの言う「妖怪千体説」(妖怪の種類は大体「千」が上限であり、これ以上になるとキャラかぶりが起きる)における「千」も大体同じ意味である。

  ところで、江戸時代にポケモン化する以前の妖怪に備わっていた分類不可能性とは実は「自然」そのものであると、別役実が水木しげる、荒俣宏との鼎談で核心を突いた意見を出しているので引用したい。

  近代に入ってあらゆる自然を分類して、名前をつけて、位置づけをして、体系化していった。でも常に「その他大ぜい」というのがある。分類する場合のこつは、ひとまずすべてのものを「その他」の中に入れて、その中から比較的わかりやすいものだけを一つ一つとり出して、これは人間である、これはヘビである、というふうに名前をつける。だから、つねに自然の母体は「その他」である。ところが現代人は「その他」をないがしろにして、わかりやすく分類できるものだけでわかりやすいひとつの世界をつくってしまったという感じがする。……。実際に、自然に対する感受性として最も重要なのは、「その他」に関する感受性であって、「その他」に対する感受性のきわめて具体的なものが、かつて妖怪として語られていたいろいろな形態とか、現象とかです。

水木しげる×別役実×荒俣宏「妖怪の饗宴」(『KAWADE文藝別冊 増補新版 水木しげる——妖怪・戦争・そして、人間』河出書房新社、2018年、121ページ)

 「その他」とは博物学者リンネが分類不可能な怪物をめんどうとばかりにグループ化して「えいっ」とぶちこんだ「パラドクサ」の項目に同義であり、むしろ近代的理性によって分ける/分かることができない、そうしたカオスこそが自然の本領なのである。この自然を江戸時代以前の日本では漠然と「妖怪」と呼んだわけであるが、本草学や博物学が本格的にはじまった江戸のパラダイムシフトによって、妖怪は名付けられ、分類され、「表象」と化した。

  では石燕に私淑する水木の『決定版 日本妖怪大全』も同じように「表象」としての妖怪、恐怖を失った娯楽としての妖怪、単なる分厚いキャラ紹介本に過ぎないのだろうか? 『決定版 日本妖怪大全』は五十音順の索引が完備されてさえいるのだから、石燕以上に博物学的データベースの「表象」に堕しているという言い方もできる。しかし、水木の妖怪画には、夥しい描き込みの、異様なリアリティをもった「背景」があることを忘れてはならない。かつて池上遼一やつげ義春がアシスタントを務め、緻密な自然の風景描写のうえに間の抜けたキャラクターがちょこんとたたずむコントラストの効いた作風は、水木マンガの代名詞となっている。ここから分かるのは、博物学特有の根切り(デラシネ)の力に対して、水木の妖怪画では根を張る力(妖怪が元々居た場所に戻す力)が同じくらい拮抗しているということだ。

  妖怪はキャラが先行するのではなく、その背景にある自然が生みだすものなのだということを、この巨匠は重々承知したうえで、妖怪蒐集を愉しんでいるのである。例えば「池の魔」という項目を見てみよう【図3】。三重県志摩近くの度会郡四郷村(わたらいぐんしごうむら)にあった池のほとりに立つと、まるで魅入られたように身を投げてしまうという記述がある。絵を見ると、黒い静謐な池を前にして男が佇んでいる。そして何かがいるのか、いないのか、よく分からないが、水面に不気味な波紋が生じている。「分からない」と思わず書いたが、この項目は「池の魔」というネーミングとしては些か不完全な、名づけ得ぬものになっている。池と岩と森の織り成す自然の「雰囲気」こそが妖怪を生み出すという原初的な感覚にこの絵は触れているのであり、これは石燕にはなかった水木の体感的な資質である。分類されたものが、未分類のカオスに押し戻される逆運動がここでは起きている。

図3 水木しげる描く「池の魔」。名づけ得ぬもの、見えないものを「雰囲気」で表現する超細密背景。
出典 水木しげる『決定版 日本妖怪大全——妖怪・あの世・神様』(講談社文庫、2022年20刷)、66ページ。

 水木に体感的資質が具わっているという点が重要だと思う。「あかなめ」という風呂の垢を舐めるだけの、「キャラ」としては非常に優秀な無目的系の妖怪に関する以下の記述など瞠目させるものがある。「昔の風呂桶は木でできていて、家の中の日当たりの悪いところにあった。だから、いつも木がヌルヌルしていて、蛞蝓(なめくじ)や蝦蟇(がま)が生息していたものである。家の中で便所とともに、もっとも妖怪のすみつきやすいところだった」(34ページ)。本当に妖怪が出てきそう質感、語りの妙、体感的リアリティがあり、絵に描かれた風呂桶も暗く、ぬめりさえ感じさせる。

 『決定版 日本妖怪大全』は妖怪を一匹ごとに一ページに封じ込めた博物学的コレクションでありながら、その檻を食い破るような妖怪のおどろで生々しい世界に触れている。かつて妖怪が名づけ得ないものであったという感覚、「「その他」に対する感受性」(別役実)が水木には残存されていて、彼にとってそれは五感のなかでも特に聴覚によって感じられるものである、ということを次頁で見ていこう。

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