【山岸凉子を読むVol.2】親とは、子とは、家族とは何なのか……後味が悪すぎる“毒親漫画”3選

『夜叉御前』

 毒親が題材のサイコホラーとして『メディア』や『狐女』を超越しているのが『夜叉御前』である。

 まず冒頭から主人公で15歳の紀子を取り巻く環境は不穏な空気に包まれている。山の一軒家になぜか引っ越してきた紀子の一家は、病気で寝たきりの母、幼い弟妹たち、介護が必要な祖母がいて、紀子はすべての家事を担っている。弟妹は楽しそうに通学しているのに、彼女が学校へ行ったり同世代の友人に会ったりする場面は一切なく誰もそれを気にしていない。間違いなく、紀子は今で言うところのヤングケアラーだ。最初に紀子の家族紹介があるが、ここに父親が登場せず、なんの不思議もないように紀子がそのことに言及しないのも不穏である。「父親の不在」という点で、前2作と共通するものを感じる。

 引っ越してすぐ、紀子は鬼の気配を感じるようになる。また、夜中、黒いものが自分に覆いかぶさっていることに気づき始め、そんなときも、押し入れから覗き込む鬼の存在を認識している。

 終盤、圧倒的な恐怖に包まれたかと思いきや、結末の最後の一文に私たち読者は震え上がることになる。紀子の不幸は、紀子のフィルターを通して描かれるが、彼女を見て泣く祖母も、紀子がやがて行く場所も決して彼女の救いにはならない。喜怒哀楽がはっきりと表れない紀子がなぜそうなったのかも、終盤の展開は物語っているのだろうか。

 最悪の毒親漫画であると共に、サイコホラーの金字塔ともいっても過言ではない漫画だ。

父親の不在が語るものは

 山岸作品において、父親は影の薄い存在だ。不倫をしていたり、妻子に興味がなかったり、娘に性的虐待をしていたり……たまにやさしい父親が現れても、父と子の関係性はあまり強調されない。

 特に毒親漫画においてそれは顕著である。彼らは子どもたちにとっていないもの、もしくは子どもたちを苦しめるものであり、父親によって母親の性格が毒を帯びたものになっていく作品も多々ある。

 今回、数の関係で紹介できなかったものに『コスモス』という作品がある。この作品はやさしい母と喘息持ちの息子が主人公なのかと思いきや、ほかの毒親漫画と一線を画している点がある。父親は息子が喘息で苦しんでいる時にしか帰ってこないため、無意識のうちに母親が、自分が喘息で苦しむのを望んでいると幼い息子は感じ取るのだ。「心配だわ」「ひどくなったらパパに来てもらいましょうね」といった母親の言葉が毒となり、決まってそういったときに息子の喘息がひどくなる。身体的な害は与えていないので、ミュンヒハウゼン症候群(子どもに病気を作り、かいがいしく面倒をみることにより自らの心の安定をはかること。※日本小児学会より)ではない。だからこそ恐ろしいのだ。

 親たちに共通しているのは、父親の不在のみならず、子どもを自分と同じ人間だと見なしていないという点だ。『メディア』のひとみはどうすれば母親から逃れられたのか。『狐女』の理はどこに行き、どのような大人になるのか。『夜叉御前』の紀子は、自分の身に起きたことをいつか自覚できるのか。答えの見つからない問いを、私はきょうも繰り返してしまう。

※初出誌一覧
『メディア』:「Amie」(講談社)1997年12月号
『狐女』:「ビッグコミックフォアレディ」(小学館)1981年4月号
『夜叉御前』:「プチコミック」(小学館)1982年4月号

関連記事