マガジンハウスの伝統と血脈「何か面白いことないか」を貫いた編集者、木滑良久が残した”編集論”
マガジンハウス最高顧問の木滑良久(きなめり・よしひさ)が7月13日に逝去したことがわかった。93歳だった。木滑は立教大卒業後、1955年に平凡出版(現マガジンハウス)に入社。「週刊平凡」「平凡パンチ」「アンアン」の編集長を経て、平凡出版の名編集者であった清水達夫のコネクションで入社してきた石川次郎らと76年に「ポパイ」、80年に「ブルータス」をそれぞれ創刊。1970年代以降、いわば日本の雑誌カルチャーの礎を担った人物だ。
マガジンハウスといえば、創業者である岩堀喜之助の口グセが「何か面白いことはないか」だったという。常に面白いことを探すことは編集者として忘れてはいけないという思いもあっただろうし、戦争を知る岩堀にとってエンタメこそが焦土からの復興の礎だという思いが自身の原動力でもあった。
「読者を大切に」「創造を大切に」「人間を大切に」マガジンハウスの社訓は、二代目の社長となる清水達夫も踏襲。88年に清水の跡を継ぐかたちでマガジンハウス社長に就任した木滑も、その純血たる「面白いこと」をネタだけではなく、人材においても常に新たな人物を探し、大衆と時代が求める嗅覚と決断力ある優れたリーダーシップによって、数多くの人気雑誌を創り、石川次郎や松山猛、都築響一、小林泰彦などの名編集者やライター、イラストレーターを生み出す豊穣の時代も築き上げた。
その中でも当時「ポパイ」や「ブルータス」でアートディレクターを務めた堀内誠一との仕事は、マガジンハウスを雑誌のカルチャーだけにとどまらず、ハイブランドからストリートファッション、それにクラブミュージックなどの音楽、建築などのライフスタイルや都市デザインにまで、現在にも脈々と流れる日本のカルチャー全般に大きな影響を与えた。戦後日本のカルチャーの根底にはマガジンハウスがあり、木滑良久がいた、と言っても過言ではない。
木滑は2011年3月30日の東洋経済オンラインでのインタビューで下記のように出版社や編集部に理想像についてコメントをしている。
「出版社はあまりきちんとした組織になってはいけない。町工場のように、一人ひとりの意思がすぐつながるような、小さなグループがいいのです。人間は組織化されてずっと同じところにいると、飽きたり疲れたり、消耗して沈滞してしまう。それを乗り越えるには、外に出ていって、面白い人たちと刺激的なコラボレーションをすることです。だから、いろいろな才能を持った人たちが、編集長の元に離合集散して雑誌を作る、“国境なき編集部”がベストです」
出版不況もあり、部数減少や休刊の話題も多く、雑誌という媒体の影響力が落ちたという話題が連日のように報道されている。雑誌への広告出稿自体に多くのクライアントが魅力を感じなくなったことも起因しており、webや動画などの紙媒体+αの展開があってようやくタイアップ記事が決まるのが現状だ。
しかしながらそんな危機的な状況の中だからこそ、木滑が提唱する出版社のスタイルは、兵庫県明石市に居を構え正社員5人で年間6冊の出版でも大手出版社と双璧をなすほどのヒット作を生み出すライツ社をはじめ、ミニマムが故のニッチで斬新な切り口や企画が大ヒットへと繋がる事例も増えている。
木滑は編集における理想として「ジャズのジャムセッションやインプロヴィゼーションのような化学反応が起きることがベスト」だと多くのインタビューで答えている。
その場の数字やノルマや締め切りに追われるがあまり、成功事例にとらわれて同じ手法やスタッフ、切り口、再編集ばかりが横溢しては、出版が活況することはまずあり得ない。
木滑は彼が責任編集を務めた『雑誌づくりの決定的瞬間 堀内誠一の仕事』(マガジンハウス刊)のあとがきで、雑誌づくりは「”深夜、大海に1人でオールを漕ぎだす水夫”のようであるといつも考える」と著す。そこには名スキッパー=アートディレクターの堀内誠一がいたことが大きいと続けているが、堀内誠一が新たな人材を探すことは重要なこと、と言っていたように、木滑も常に新たな手法や切り口を考えていた証左であろう。木滑が考えていた”編集論”は、編集者のみならず、閉塞的な状況下においてブレイクスルーを起こすための箴言であり続ける。