芥川賞受賞作『荒野の家族』評 震災が忘れられることに対するささやかな抵抗
ここで作者が巧みだと思ったのは、最初の妻の死を、震災の二年後にしたことだ。震災によって狂った生活を立て直そうと仕事に打ち込む祐治だが、それを言い訳にして妻の体調不良から目を逸らし続ける。震災を妻の死の直接の原因にしないことで、特別な悲劇ではなく、誰にでも起こる可能性がある普遍的な悲劇にしているのだ。震災をテーマとしながら、祐治の悩みが他人事に見えない理由はここにある。
さらに祐治と昔から因縁のある、明夫の人生に注目したい。震災で妻子を失い、人生の狂った明夫。しかし作者は彼を主人公にしなかった。体力が落ちてきていることを感じる。息子との関係もギクシャクしている。出て行った知加子と話をしようとして、彼女の職場の人からはストーカー扱いされる。さまざまな問題があっても、ひとり親方として働いている祐治の日常は、平凡なものといっていい。だからこそ彼の人生に対する焦燥に共鳴できる。取り戻せない過去は、誰にだってあるのだから。
と書くと祐治が魅力的なようだが、そんなことはない。仕事を言い訳にして、大切なことを見ようとしない、矮小な人間だ。だが、さまざまな出来事を経て、ちょっとだけ祐治は変わる。ラストの彼の髪の変化は、その暗喩であろうか。そういえば『象の皮膚』のラストも、主人公の髪のことだった。佐藤作品を理解するうえで、注目すべきポイントかもしれない。
仙台で生まれ、いまも暮らす作家が、震災が忘れられることに対して示した、ささやかな抵抗。その成果である本作のことを、読んだ人は忘れない。ひとりの読者として、そう断言したいのである。