海賊王におれはなる! まるでワンピースな日本史上稀有の「海賊王」 藤原純友の波乱に満ちた人生航路

 しかし、翌年には海賊活動が頻発するようになる。数百から1千とされる船団が伊予、讃岐を襲う。山陽地方や四国だけでなく、淡路、紀伊までその兵火は及ぶ。

 日本史上稀有の海賊による大反乱が起こったのだ。そして、その首魁こそ、藤原北家の男、藤原純友なのだ。

 純友が何に怒っていたのかは、わからない。迅速な実力行使と次の行動に間があるので、なんとか、海賊たちの思いを朝廷に伝え、交渉の上で何らかの成果を得ようとしたようにも見える。

 だが、ついに彼は瀬戸内海を飛び出し、九州の大宰府をも襲撃する。ことは瀬戸内だけの問題ではなかったのだろう。

 いや、彼はすでに海賊王なのだ。日本という枠さえ小さい。もっともっと大きな海原を見ていたのかもしれない。

 しかし、純友軍はここで敗北する。追捕山陽南海両道凶賊使といういかめしい任務を与えられた小野好古(おののよしふる)の軍に破られたのだ。

 伊予に敗走した純友であったが、ここで子の重太丸と一緒に討たれたとされている。

山内 譲『海賊の日本史』(講談社現代新書)

 この純友のことも含め、日本における海賊史、特に瀬戸内系海賊を解説しているのが、『海賊の日本史』(山内 譲・講談社現代新書)だ。ここに書いた純友の伝も、そこに拠る形にしている。暑い夏に、海を眺めながら日本史を考える上では、とてもいいテキストとなる。

さて、この書でも指摘しているが、藤原純友という人物はその事績に比べて、残された史料があまりに少ない。

 しかし、都で育った貴族の青年が、潮風の香り豊かな地に赴き土着し、いつしか、船上で剣を振るう海賊の王になったという不思議な足跡が残る。内陸である都育ちの彼に対し、海が好きか、と伊予で誰かが問うたのだろう。彼はどこかで答えたのだろう。

「大好きだっ!」

 その言葉に、多くの海賊たちが集ったのだ。どこか、人を寄せ付ける性格だったのだろう。武勇も胆力もあったのだろう。

 だろう、だろう、で申し訳ないが、そうでなければ、この人物の航路は成立しない。

 承平天慶の乱は、陸に平将門、海に藤原純友という王を刹那的であっても生み出した。彼らは陸海の何かの矛盾に立ち向かった存在だった。

 そして、平安時代が終わるころ、関東では陸の矛盾を絶つ形で源頼朝が王となった。

 では、海は?

 武門として伸長した伊勢平氏は瀬戸内、いや、大宰府、さらに中国までを結ぶ物流に目を付けていた。そこから出たのが平清盛という男だ。だからこそ、厳島神社はあの場所にある。

 そういう見方をすれば、平将門、藤原純友という両反乱者は、頼朝、清盛より前の日本の初代陸海の王であり、彼らは平安朝廷が捨てた何かに、奉戴されていたとも考えられる。

 そして、時代は回る。日本史は中央朝廷ではなく、それぞれの地に生きる人のものになっていくのだ。

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