『進撃の巨人』無垢の巨人はなぜ笑っているのか? 諫山創の描く絵の怖さを考察

 恐怖と笑いは紙一重――というのは昔からよくいわれていることではあるが、なかでも「笑顔」というものは、時と場合によっては恐ろしく見えてしまうことがある。

 たとえば、「春のやわらかい日差しのなか、美しい少女が微笑んでいる」という一文を読んで、不気味な印象を抱く人はまずいないだろうが、この次に、「彼女の右手には血まみれのナイフが握られており、その足元にはめった刺しにされた男の死体が――」と続ければどうだろうか。明るいイメージは一変し、ホラーの1シーンと化すことだろう。

 これがなぜ怖いかというと、本来は笑うようなシチュエーションではないにもかかわらず少女が笑っているからである。それは要するに、先に述べたように「普通の感覚」からは逸脱したビジュアルだからおぞましいのであり、『進撃の巨人』に話を戻せば、「人に似た巨大な存在が人を食う」という異常な行為――カニバリズムは人間の最大のタブーのひとつである――のさなかにも、無垢の巨人たちがへらへらと笑っているからこそ、「絵的」に怖いのだ(あなたがもし映画ファンなら、『シャイニング』でジャック・ニコルソンが見せる「例の笑顔」を思い出していただければ、私がいっている「怖さの原理」はなんとなくわかっていただけるはずだ)。

諫山創の描く「怖い絵」は好奇心を刺激する

 とはいえ、ここである疑問を抱く方もおられるかもしれない。つまり、そんな恐ろしい場面は、それこそ「普通の感覚」では、目を背けたくなるのではないかと。そんな絵のどこが「魅力的」なのかと。これについては、「ホラー」と呼ばれるジャンルの「娯楽作品」が、なぜいまも昔も、少なくない数のファンによって支えられているのかを考えてみれば、わかりやすいだろう。

 人はなぜ、わざわざ恐ろしいホラーの映画を観たり、小説を読んだりするのか。それは、非日常の怪異に取り込まれた登場人物たちが恐ろしい目に合うさまを見る(読む)ことで、自分がいま「安全な場所」にいることを再確認できるからにほかならない。

 そう、このある種「嗜虐的」とさえいえる見方(読み方)は、かつての大衆文化の華――見世物小屋での出し物の多くが、怖さや残酷さを「売り」にしていたことにも通じるだろう。もちろん中にはそこからはみ出してしまうほど怖いものもあるだろうが、人はたいてい、「死」や「タブー」のイメージを恐れながらも、「現時点での自分の安全」を再確認するために、一歩離れた場所からそれを「見たい」とも思っているのだ。

 いずれにせよ、諫山創の描く「怖い絵」には――とりわけ無垢の巨人のビジュアルには、そうした大衆の「怖いもの見たさ」の好奇心に応えられる魅力が備わっており、『進撃の巨人』という漫画が社会現象的な大ヒット作になるには、何を差し置いてもまずは「あの絵」でなければならなかった、というのはそれほど間違った見解ではないだろう。

『進撃の巨人』34巻(講談社)


参考文献:『死の舞踏―恐怖についての10章―』スティーヴン・キング/安野玲・訳(ちくま文庫)

島田一志……1969年生まれ。ライター、編集者。『九龍』元編集長。近年では小学館の『漫画家本』シリーズを企画。著書・共著に『ワルの漫画術』『漫画家、映画を語る。』『マンガの現在地!』などがある。https://twitter.com/kazzshi69

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