『ねこぢるうどん』の不穏さは現代を予見していた? 90年代の不条理ギャグが映し出す変化

 いがらしみきお『ぼのぼの』(1986年~)、相原コージ『かってにシロクマ』(1986年~1989年)、中川いさみ『クマのプー太郎』(1989年~1994年)、吉田戦車『伝染るんです。』(1989年~1994年)、漫☆画太郎『珍遊記-太郎とゆかいな仲間たち-』(1990年~1992年)——。1980年代後半から1990年代前半にかけて巻き起こった“不条理ギャグマンガ”ブームを代表する作品だ。

『ねこぢるうどん』が描いていたもの

 赤塚不二夫、山上たつひこらが一時代を築き、70年代後半に鴨川つばめの『マカロニほうれん荘』、江口寿史の『すすめ!!パイレーツ』によって大きく発展したギャグマンガのシーンに、80年代後半から実験的かつアバンギャルドな作風を持つ作家が次々と登場した。ストーリー性を無視するような構成、ナンセンスなギャグとインパクトのある絵柄を軸にしたこれらの作品は、それまでのマンガの常識を覆すムーブメントだったと言っていい。なかでも異彩を放っていたのが、ねこぢるの『ねこぢるうどん』。かわいくて残虐なキャラクター、猫の“にゃーこ”を主人公にした、90年代の不条理マンガを代表する作品だ。

 『月刊漫画ガロ』1990年6月号に“山野一+ねこぢるし”名義で連載が始まった『ねこぢるうどん』は、ねこぢる、彼女の元夫である山野一の共同制作による作品。(ただし筆者の手元にある『ねこぢるうどん』『ねこぢるうどん2』には、“著者・ねこぢる”と表記されている)。ガロの同じ号には、根本敬、みぎわパン、山田花子、安彦麻理絵などの作品が掲載されていて、実験性とポピュラリティを兼ね備えたマンガがひしめいてたのだが、『ねこぢるうどん』の雰囲気は、それらの作品とも明らかに違っていた。

 『ねこぢるうどん』の主なキャラクターは、にゃーこをはじめとする猫の家族。弟のにゃっ太は言葉がしゃべれず、父親のにゃん五郎はアルコール依存でいつも酔っぱらっている。内職で家計を支える母親のにゃす江は一見しっかり者だが、いつもイライラしていて、しばしば子供たちに暴力をふるう。にゃーこの友達も極貧だったり家族が認知症だったりと何かしら問題を抱えていて、とにかく幸せなそうな人(猫)はまったく出てこない。にゃーこ、にゃっ太はそんな環境にもめげず、未来に向かって健気に頑張る……わけではなく、ペットの犬を虐待したり、庭の虫たちを勝手に裁判にかけて死刑にしたり、自分たちよりも弱いものを(無表情で)いじめて楽しんでいる。

 南米文学のマジックリアリズムにも似たエピソードも『ねこぢるうどん』の特徴。にゃーこが風邪をひいて熱にうなされているとインド人っぽいキャラが現れてあの世に連れていかれそうになったり、突然出現したサーカスを見に行き、虚無主義を名乗る神様に家族を消されてしまったり。夢の中の出来事のようでもあり、神話的でもある摩訶不思議な世界観は、ねこぢるの特異な才能の賜物だ。

 1992年に発刊された『ねこぢるうどん』1巻の巻末に掲載されている黒川創氏の解説「夢の不穏」には、「ねこぢるの作品の不穏さは夢の感覚に似ているように私は思う」と記され、『ねこぢるうどん2』の帯には、サエキけんぞう氏が「昔、ぼくもこのくらいイヂワルだった。このくらいコワくてうすら寒くてオモシロイことを考えられた。もういちど夢のせかいにもどりたいから、この本を買う」という文章を寄せている。これらの文章からもわかるように、子供時代に思い描いていた無垢で残酷な夢の世界をポップかつキッチュな絵柄で描く、というのが当時のねこぢるの評価だったのだ。

   それは間違いではないが、筆者はそれだけではなく、『ねこぢるうどん』というマンガに対し、奇妙な現実感も感じていた。このマンガの連載が始まった90年代前半はバブル崩壊が現実になり、世の中に「ずっと景気のいい時代は続かない」「この先はどんどん落ちていく」という雰囲気が生まれてた時期。『ねこぢるうどん』の不穏さは、その先の未来を予見していたのだと思う。

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