Mrs. GREEN APPLE『POPS』評 Vol.4:蜂須賀ちなみ 諦念と肯定の先に見出した“バンドでありポップスである”という宣言
Mrs. GREEN APPLEによる話題のニューアルバム『POPS』を連続レビューしていく。第4弾は、ライター・蜂須賀ちなみ氏によるレビューをお届けする。(編集部)
バンドへの執念、バンドで鳴らす意味ーー自己批判の果てに見た“答え”
ポップスとは、ポピュラーミュージック(大衆音楽)に由来する言葉。ジャンルや曲調を問わず、広く人々に聴かれる音楽をそう呼ぶのだと考えれば、Mrs. GREEN APPLEが今、日本のポップスの最前線に立っていることに異論を挟む者は少ないだろう。
そんな彼らが、『POPS』という言葉をアルバムタイトルに掲げることの重さ。「確かめよう。」(※)とリスナーへ呼びかける姿勢に滲む、自らの立ち位置への自覚。ミセスの活動の舵を取り、もはや人生をエンタメに捧げている大森元貴(Vo/Gt)が背負うもの。――そういうものを一旦全部取っ払って、改めてこのアルバムを聴いた時、私は「偏屈なバンドマンだな」と思った。
偏屈だと思ったのは、決してリスナーフレンドリーなアルバムではないからだ。なかでも象徴的な1曲が「ア・ポステリオリ」。4分の5拍子を軸に2拍子や3拍子も織り交ぜながら展開する、一発ではまずカウントできない超絶変拍子曲だ。しかもアルバムで初出の新曲9曲のうち、最初にMVが公開されたのがこの曲だった。入り口として親切とはとても言えないだろう。
この曲に限らず、アルバムの多くの曲が実験的で、もはやプログレと呼びたくなるほど複雑だ。音も言葉も輪郭が明瞭で、全ての楽器が耳に飛び込んでくる分、情報量がとにかく多い。それでも、いい歌といいメロディが真ん中にありさえすればポップスになるという途方もない力技に、「なんかすごいことが起きている」「ながら聴きしている場合ではない」と思わせられる。
バンドマンだと思ったのは、2つの意味においてだ。一つは、バンドサウンドの主張が強いこと。16曲中11曲にストリングスが入っているが、それにしてはバンドとしての我が強い。例えば、USエモ/パワーポップ的なサウンドの「Brand New」に、若井滉斗(Gt)が様々な奏法を駆使しながらギターを弾き倒す「共犯」が重なるオープニングは、まるで自分たちはバンドであると改めて名乗りを上げるよう。そして「シンデレラ」では、ファンタジックなオーケストラに調和するのではなく、拮抗するようにバンドサウンドが鳴っている。ホルンとともに若井のギターが吠える一方、フルートからストリングス、金管楽器へと受け渡されるメロディを、藤澤涼架(Key)が鍵盤の広い音域を生かして追いかける。アレンジがどんなに豪華でもプレイヤーとして一歩も引かないその姿勢に、バンドマンの執念を感じた。
もう一つは、アルバムのリリースを社会現象にしてしまう力があること。雑誌の表紙ジャックや期間限定のポップアップストア、収録曲の歌詞を使用した広告の掲出など、様々な催しによって、リリースが祭の様相を呈する中、SNS上では実際に『POPS』を聴いたリスナーの議論が活発化している。今や音楽以外のフィールドでも活躍するポップスターである3人が、他ならぬ音楽で熱狂を巻き起こしているのがなんとも痛快だ。
ミセスはこれまで、その時々で向き合うべきものをアルバムタイトルに据えてきた。『POPS』もまた、リスナーに何かを問う以上に、自分たちに突きつける戒めとしての看板なのだろう。また、ポップスという言葉は今突然出てきたものではない。彼らは結成~デビュー当初から自分たちはポップスをやっていくのだと明言していたし、自らの信じる道を突き進んだ結果、今の場所にいる。
大志を抱き、ライブハウスから出発したかつてのミセスから、今や時代や大衆を相手にしているミセスへの「ところであなたは、どんなもんなの?」という問い。その返答のような曲が並んでいるアルバムだなと私は思った。その時に必要になるのが、踏み込んだ自己批判と、それを支えるだけの音楽的な自己更新なのだろう。例えば、バンドが鳴らす音楽は、はたしてロックでなければならないのか。そこに対して、ミセスがこれまでの活動を通じて叩きつけた回答はNO。固定観念やレッテルなどない方がもっと好きなように、自由に音楽を鳴らせるはずだと言わんばかりに、彼らは多様な楽曲を発表してきた。
では、今のミセスは、本当に自由な音楽を鳴らせているのか。ポップスの定義の広さを逆手に取り、イマジネーションを存分に働かせられているのか。その答えは、アイデアを次々と繰り出すアルバム全体の構成、3~5分代の中にはち切れんばかりのエネルギーを詰め込んだ楽曲たちに表れている。なかでも「プロジェクト4」の創作論・人生訓めいた歌詞や、ハイパーポップ以降の潮流を感じさせる実験的な音楽性は、自らへの戒めであり、忘れたくない精神を刻んだものとして受け取った。
また、多くの人に受け入れられるためには、明るい響きに乗せて、最大公約数的なメッセージを歌わなければならないのか。この問いにも、ミセスはNOを提示してきた。『第76回NHK紅白歌合戦』で披露された正真正銘のポップス「GOOD DAY」で〈私の人生は/「ほんと、素晴らしいもの。」/言えない日があるのも/自然なグルーヴ〉と歌っているように、希望を信じたくなる日も、そんな気分になれない日もあるのが人という生き物。『POPS』が描く壮大なサウンドスケープとは対照的に、大森が歌詞に書くのはどこまでも小さなひとりの人としての実感。その結果出てくるのが、〈僕は君が思う様な僕じゃない/愛し愛されるアンセムなんか無い〉(「Really Really」)という痛烈な自己批判だ。
さらに「瞞し」では、〈“人は知らずに人を傷つける”〉など、これまで自分が歌ってきたような言葉を並べながら、〈そうやって/どうにかやってきたけど/もういいや〉と歌う。大森の声色も、藤澤のピアノの音色も切なく、胸を締めつけられる。この曲にあるのは自らを疑う厳しい眼差しというより、張り詰めていた糸が切れてしまいそうな、諦観混じりの危うさだ。絶対的な保証も客観的な根拠もないまま、自らが信じたいものに価値を認め、関わり続けようとする行為は、引き受けるに値するのか、それ自体が欺瞞なのか。自分の足場そのものを揺さぶるところまで踏み込む。それが、『POPS』における自己批判の行き着く先なのだと思う。
結局、大森は、自分のことを一番信用していないのではないか。とはいえ、得ては失う人生の中で、その結果として、今の自分になったという事実は誰にも変えられない。ならば自分は自分として、この人生を引き受けた上で、どうせなら、楽しく生きたい。アルバム全体から感じられるのは、そんな諦念と肯定が同居した感覚だった。
その肯定の感覚を支えているのが、バンドという存在なのだと思う。若井や藤澤というソルジャーがいるから、シニシズムに陥らずに済む。この3人で鳴らすからこそ、自分が立っている場所の脆さを認めながらも、何かを信じ続けようとする往復運動が音楽の中に生まれる。3人から生まれた楽曲は、聴く人の日常を照らすポップスになり得る。ブレイクコア×マスロック的な音像とともに疾走する「エピソード」の〈与えられた命題と/限られた私の才能/あなたと出会えた/この装置は最大の芸術〉というフレーズを聴きながら、そんなことを感じた。
だからこそ、バンドそのものを記録したような「Variety」でアルバムが締められていることに大きな意味があるように思う。メジャーデビュー作と同名のこの曲では、同作の1曲目「StaRt」のリフが引用されている。2015年、4つ打ちのビートでフロアを踊らせることがギターロックバンドの勝ち筋かのような空気があった時代に、自分たちはポップスをやっていくのだと改めて宣言するように鳴らされた「StaRt」。そのリフを仕込むことで、ミセスはまた狼煙を上げた。偏屈で、疑い深くて、それでもポップスを鳴らすバンド。そんな姿に、私はどうしようもなく惹かれてしまう。
(※)https://x.com/AORINGOHUZIN/status/2104541827215094174


























