佐々木チワワ 寄稿:きゃりーぱみゅぱみゅとカワイイコンプレックスの私
同じ単語が繰り返されて、甘いお菓子みたいな響きの歌詞。画面に目を向けると、ド派手でカラフルな女性が踊っている。意味がわからないのに目が離せなくて、気がついたら歌詞を口ずさんでいた。つけまなんて買ったこともないのに、可愛いと感じた。
私にとってきゃりーぱみゅぱみゅは自分のKAWAIIを信じられる強さの象徴だ。骨格診断も、パーソナルカラーもまだ今ほど女の子たちを支配していなかったあの時代。「似合うかどうか」じゃなくて「可愛いと思うかどうか」で服を選べる強い女の子たちが原宿には溢れていた。自分の「好き」をわかっていて、可愛いを味方につけている女の子がたくさんいる、私とは無関係の街。それが2010年代前半の私にとっての彼女と原宿だった。
東京23区に生まれたけれど、原宿とは全く縁のない生活を送ってきた。母の行きつけの美容院は表参道で、私も自然と小学生の頃から15年母と同じ美容室に通っていた。月に一度は新宿の伊勢丹に母と買い物に向かい、バイヤーさんと話しているのを眺めて待っていた。ある程度上質なものを着せてもらっていたのだと思う。単語だけ切り取ると幼少期からおしゃれな都会の女の子…にもしかしたら見えるかもしれない。けれど私は26歳になった今もどんな服を着ればいいかわからないし、好きなブランドも特に無い。今この原稿を書いている私の服装はというと4年前にホストクラブで貰ったイベントTシャツにボロボロの大学ジャージである。そんな私が日本のKAWAIIを代表するきゃりーぱみゅぱみゅについて語るのは大変お恥ずかしいのだが、原宿がKAWAIIの聖地となっていく2010年代に東京で10代を過ごした一人の女の子として、当時を振り返りたいと思う。
きゃりーと原宿が教えてくれた、自分のための「可愛い」
小学校から国立の学校に通っていた。制服だった。決められたアイテムの中で少しだけ遊び心を加えるのは楽しかった記憶がある。母はファッションが好きな人だった。通っていた日能研のリュックはダサいからとポンポネットの塾リュックを買い与えてくれていた。決められたアイテムの中で個性を出す楽しさは理解していたが、圧倒的に自由なファッションには耐性がなかった。女子のおしゃれは小学校の通学着で磨かれるのかもしれない。思い返せば初めて自分で服を買ったのは中学生だったし、その後ようやく毎日が「私服」となった大学生活も気づけば半分以上を慶應ジャージかバーバリーのスウェットで通っていた。学校は勉強をするところで、そこにおしゃれも自己表現もいらない。持ち物:自分の身体だと思っている節がある。それは今も変わらず、基本的に人前に出る時やデートなど「外見が必要な状況」以外は機能性とラクさを最重視した服装で生活している。私の中でおしゃれは自分のためにするものでなく、何か目的がある時にするものなのだ。
同級生も基本的に毎日制服で会うからおしゃれかどうかなんてあまりわからなかった。そんな私が原宿・竹下通りに頻繁に通うようになったのは高校に入ってからである。大学受験を視野に入れた時にあまりに社会を知らないことを痛感し、課外活動として女子高生向けのイベントに手当たり次第参加していた。そのうちの一つがJOL原宿でマイナビが行っているイベントだった。塾以外で初めて出会った女の子たちは「JK」だった。スカートが短くて、お化粧がうまくて、細くて、かわいい女の子。モデルとかインフルエンサーを目指している子が多かった。私には着ていく服がなかった。土日でも制服を着ていた。少しずつ原宿という街に磨かれて、初めて「やってみたい」で髪の毛を巻き、スカートを短くし、少し高い化粧品を買ってみた。制服の着崩しがかなり自由な高校だったので、高3になる頃には厚底ローファーにヒステリックグラマーのジャケットで通学していた。自己表現の楽しさを教えてくれたのが原宿と、原宿にいるKAWAIIを全力で楽しめる女の子たちだった。あの時の私は自分のために、自分が可愛いと思えるもののために努力していた。女子高生という肩書きを生かしたライター活動を竹下通りの会社でやっていた。原宿で可愛い女子高生としてクレープを食べている時、「マジ今JKしてる!」とよく友達と話していた。
歌舞伎町における「可愛い」は原宿と異なる、と私は思う。この街の可愛いは、女の子として消費される価値に可愛さを置いている。ホストクラブでの「可愛い」はその外見で稼げる換金可能性に対してだ。自分が思う可愛いじゃなく、稼げるための「可愛い」が重要視される。「本当に稼ぎたかったら派手髪なんてやめて、黒髪ボブにする。個性は甘え。」ホストのために毎月何百万を風俗で稼ぐ女の子はそう話していた。自分磨きを「スペ上げ」というようになったのも夜の世界が発祥だ。この街の「可愛い」は、経済と換金できる資本であり、市場に規定されている。
対してきゃりーの歌う「KAWAII」は圧倒的に自由だ。令和のアイドルの歌うカワイイは他者からの承認や、誰かを納得させるため、ひいては自分を納得させるためにカワイイを叫んでいるように思える。自分が可愛いと思うものを身につけて、可愛いと思う服を着て、可愛いで満たしている自分は可愛いと思えていたはずが、いつしか他者から「可愛いと思われるか」にレンズが移動してしまっている気がする。
そのレンズは、私自身にも向いている。人前に出るのに相応しい格好、舐められない格好、モテそうな格好…。私の可愛いは、誰のための可愛いなんだろうか。好きな色を「似合わないから」と諦めたあの日に、私のための可愛いは枯れ始めていたのかもしれない。
きゃりーぱみゅぱみゅの可愛さは、規定されていない。自分が思う可愛いを極めて、その可愛いを信じて歌っている。だから可愛い。可愛いを信じている女の子は、世界で一番可愛いのである。彼女の曲を聴くと、少しだけ私のコンプレックスが刺激されるのは私がまだ自分の思う「可愛い」を自分の味方につけられていないからかもしれない。
原宿を歩いていた時の全能感が懐かしい。好きな俳優が着ていた個性的な服をわざわざ買いに行った。似合う似合わないじゃなくて、好き・可愛いを身に纏っていた。顔の黄金比を定規で必死に測っている今より、あの時の方が私は「可愛い」を味方につけていたんじゃないだろうか。
私の可愛いは、今どこにあるのだろう。探したくなった。いつも買い物は「タスク」だからおしゃれなんてしない。でも今日はこの後、おしゃれをして「お買い物」に行きたくなった。私の可愛いに出逢いに行くのだ。可愛いを見つけるための準備をしなければ。きゃりー、ありがとう。あなたの曲を聴いて、私は久しぶりに可愛いを楽しめる気がしている。