米津玄師はなぜ“鳥”を歌うのか? 牙と血によって手に入れた自前の翼、「烏」までの変遷を振り返る
サッカーの『FIFAワールドカップ』は、数万人の観衆がひとつの空間に集い、国や人種を超えた熱狂が渦巻く巨大な“祝祭の空間”である。しかし、2026年大会に向け、米津玄師が2026 NHKサッカーテーマとして書き下ろした最新曲「烏」(からす)は、既存のスポーツアンセムが持つ“団結”や“勝利至上主義”という予測可能な枠組みを緩やかに解体するものである。
歌詞に目を向けると、そこにあるのは光り輝くスタジアムの情景ではない。〈誰の声も聞こえない場所〉〈寄せ書きもそっと机にしまって〉〈更地になった公園〉〈埃まみれで続く路地裏〉といった、集団の熱狂と一線を画し、独立した個人でいられる孤独な空間へと反転しているのである。
光り輝く巨大なスタジアムと、寂れた路地裏。この極端なふたつの空間を自在に往来し、媒介できる存在として設定されたのが「鳥」である。米津は本楽曲に「サッカーという大きな構造の中で、前を見据え屹立し続ける人々が、集団であると同時に健やかなる個人でもあってほしいという願い」を込めたと語っている(※1)。集団としての熱狂から離れ、一個人の孤独な魂へと立ち返るための導き手として、彼は大空を悠然と飛ぶ鷹や鷲ではなく、人間の生活圏の地べたや路地裏を這うように飛び、時に不吉とすらされる「烏」を選び取った。
米津玄師のディスコグラフィを俯瞰する時、“鳥”は単なる装飾的なモチーフではないことが明白となる。それは一貫して“重力”――すなわち、人間の泥臭い業、逃れられない現実のしがらみ、コミュニケーションの不全、そして肉体や社会構造がもたらす拘束――と対峙し、格闘する人間の精神のメタファーとして機能してきた。
米津の初期の作品群において、“鳥”は自己の無力さや他者とのコミュニケーション不全を象徴する存在であった。人間が抱える感情の重さ、言葉の不完全さという“重力”に耐え切れず、空へ逃避したいと願う一方で、決して飛ぶことのできない自己への絶望が通底している。その原点である「vivi」に登場する〈行方のない鳥〉は、相手に届くことなく虚空を彷徨う無力な言葉の暗喩である。感情という形のない純粋なものを、言葉という“鉛”のような重力を持った物質に変換した途端、それは本来の純粋さを失い“嘘”に汚染されて墜落してしまう。初期の米津にとって鳥とは、目的地にたどり着けない言葉の残骸であり、虚無感の象徴であった。
「鳥にでもなりたい」では、鳥は明確に“現実逃避の対象”として機能する。〈今更どこへもいけないなら じゃあきれいな鳥にでもなりたいわ〉という歌詞は、自己の存在価値を他者に依存する危うさと、愛されない重苦しい現実からの逃走願望を端的に表している。このフェーズにおける鳥は、人間の肉体や精神的なしがらみという重力を完全に切り離した、無機質で純粋な“高み”にある存在として神聖視されている。しかし、それは裏を返せば地に足をつけて生きることへの痛切な拒絶であり、モラトリアム的な自己防衛の表れだ。
逃避の対象として設定されていた鳥は、「Flamingo」で劇的な変化を遂げる。空を翼を駆使して自由に飛ぶ“きれいな鳥”ではなく、地上をふらふらと歩き回る、地に足のついた鳥がモチーフとなった。〈宵闇〉〈花曇り〉といった鬱屈した気象条件のなか、主人公は〈チンケな泥仕合〉を演じ、〈吐いた唾も飲まないで〉と虚勢を張りながらもみっともなく相手を追い求める。この時期の米津は、「Lemon」の大ヒットを経てポップスターとして熱狂的な歓声を浴びる一方で、自身の内にある「チャランポランな感じ」や周囲への「苛立ち」を抱え、そうした「みっともなさを一曲にぎゅっとまとめたかった」と語っている(※2)。空へ逃避していた初期とは異なり、本作は自らの素行の悪さや地べたでの泥仕合を肯定し、そのなかで這いずり回りながら生きていくという強烈な生への執着を示している。
重力の受容は、2020年の「カナリヤ」において、より静かで深い精神性へと到達する。この曲で描かれたのは大空を飛ぶ鳥ではなく、人間の都合で狭い空間に閉じ込められてきたカナリヤである。楽曲制作の背景には、パンデミックによる世界的な“閉鎖空間への幽閉”があった。空を飛んで逃げるのではなく、〈あなたも わたしも 変わってしまうでしょう〉と人間関係の摩擦や経年変化を静かに受容し、鳥籠のなかで他者とともに生きていく覚悟が示される。ここでは“飛べないこと”は、もはや欠落ではなく、隣にいる他者と同じ重力を共有し、互いの傷を舐め合うための必然的な条件へと昇華された。
地上での泥仕合や鳥籠のなかでの共生を肯定するプロセスと並行し、米津の描く鳥はもうひとつの重要な進化のルートをたどっていた。それが、傷ついた他者を守り、自らの意志で荒れ狂う現実の真っ只中へと飛び込んでいく、“利他的で力強い飛翔”である。
「飛燕」において、かつての逃避的な心情は〈翼さえあればと 灰を前に嘆いていた〉と過去のものとして相対化される。彼が飛翔するための羽は自己の欲望ではなく、〈誰かが泣いている〉声という他者からの要請によって獲得される。風に煽られながらも〈渦を巻いて飛ぶ鳥の 姿を倣えばいい〉と、過酷な現実の逆風を推進力に変え、他者のために〈嵐の中〉へと自ら突入する勇敢な存在として覚醒したのである。
そして、この“利他的な飛翔”と“重力との格闘”が最高潮に達したのが、2024年の連続テレビ小説『虎に翼』(NHK総合)の主題歌「さよーならまたいつか!」である。〈見上げた先には燕が飛んでいた〉という空への眼差しから始まり、〈もしもわたしに翼があれば〉と嘆いていた主人公が、社会の理不尽という巨大な重力に真っ向から牙を剥き、〈土砂降りでも構わず飛んでいく その力が欲しかった〉と渇望し、〈繋がれていた縄を握りしめて しかと噛みちぎる〉ことで、自らの牙で自前の翼を強奪する。また、〈口の中はたと血が滲んで 空に唾を吐く〉という極めて肉体的で生々しい描写は、重力を振り切るための代償と痛みを明確に示している。〈人が宣う地獄の先にこそ わたしは春を見る〉という強烈な反骨精神。自らの血を流し、社会の理不尽という巨大な重力に真っ向から牙を剥く“闘う鳥”の誕生であった。