“流し”のシンガー 田内洵也、桑田佳祐との運命的な出会い 『深川のアッコちゃん』制作エピソードに迫る

桑田佳祐との“空気を読まなかった”出会い

――では、その“流し”の田内さんと桑田さんとの出会いについても聞かせていただけますか?

田内:今から9年ほど前に遡ります。音楽で食べていきたいものの、じゃあ毎週ライブハウスやイベントへの出演がブッキングできるかというと、知名度も集客力もない自分にはやっぱり難しい。そこで、一番手っ取り早く音楽でお金をもらえる方法を考えて、レギュラーで雇ってくれるようなバーやスナックといったお店を見つければいいんじゃないかと思い付きまして。

――“箱バン”ならぬ、流しの“箱シンガー”というわけですか。

田内:はい。当時、週に5日ぐらい、いくつかのお店でリクエストに応えたりしながら歌わせてもらっていたんですが、そのうちのひとつの店に、たまたま桑田さんがご友人の方と来てくださったんです。その日、マスターから突然、「洵也、びっくりしないでほしいんだけど、今日、桑田さんが来るんだ」と言われて。

――そう言われても、びっくりしますよね(笑)。

田内:そりゃあ、もう(笑)。でも、僕は普段からその店では、歌わない時はカウンターに入って、接客じゃないですけどお客さんの相手をして喋っていたんです。だから、その日も一応ギターはセッティングしていたものの、「まあ、演奏はないと思うけど、とりあえず手伝ってよ」と言われて店にいたんですね。で、本当に桑田さんがいらして。ご友人の方と談笑されて、桑田さんちょっとリラックスされたタイミングで、マスターが「洵也、ちょっと歌ってみるか?」と。

――今回のリリースにあたって、桑田さんが寄稿されたコメントの中に「いきなりヤツがエディ・コクランの『Twenty Flight Rock』をかましてきたので、なんて空気の読めない野郎だと思った」という初対面のエピソードらしき記述がありましたが。

田内:まさに、そのコメントの通りでした(笑)。

――憧れの人に、大胆にも出会い頭からカウンターパンチのようなロックンロールをぶちかましたわけですか。

田内:おかしなやつに見えますよね。でも、これには照れくさいけど理由がありまして。僕は本当に桑田さんが大好きで、ずっと桑田さんにお会いしたかったんです。そして、もしもいつか本当に桑田さんにお会いできた時は、絶対に「Twenty Flight Rock」(1957年)を歌うんだ! と、勝手に決めていたんです。というのも、この曲はThe Beatlesのジョン・レノンとポール・マッカートニーが初めて会った時、「何か弾ける?」というジョンの問いかけに応えてポールが弾いた曲、つまりThe Beatlesの始まりの1曲。桑田さんが敬愛されていて、尚且つ、自分も通ってきたThe Beatlesの要素や、ロックやルーツミュージックの要素がすべて詰まったようなこの曲を、「絶対に自己紹介の名刺代わりに歌うんだ!」と決めていたんです。

――そういうことでしたか。で、当の桑田さんの反応は?

田内:僕としては楽しそうに聴いてくださっていたように記憶していますが、もう、とにかく感無量で(笑)。その時に「普段、何してんの?」とか「どこ住んでんの?」とか話しかけてくださったんですが、ガチガチに緊張してしまいまったくお話しできなかったです。その後も、何度かお店でお会いして、(サザンのサポートメンバーの)斎藤誠さんのラジオに繋いでくださったり、何かと気にかけてくださって。でも、その後コロナ禍に入ってしまい、お会いする機会もないままで……でも去年、4年ぶりくらいにお目にかかれた際、ふいに「洵也は最近、曲は書いてるの?」と言われまして。そういえば、桑田さんの前で歌うのは洋楽のカバーだけで、オリジナルを歌ったことはなかったんですね。で、「実はこういう曲を書きまして」と聴いていただいたのが、「深川のアッコちゃん」でした。

「深川のアッコちゃん」誕生秘話

――この曲は、前述の田内さんのアルバム『Traveling Man』の中の1曲ですが、どんな経緯で生まれたのでしょうか?

田内:歌詞のベースは、20代前半で上京して、隅田川沿いの辺りで暮らしていた頃の思い出です。深川ってカウンターだけの小さな居酒屋が多くて、その中に、歳の頃で言うと5、60代の綺麗なお姉さんが5人くらいで回しているお店があったんです。どうやら、皆さんは地元育ちの友人同士らしく、カウンターのお客さんは、その同級生や幼馴染のおじさんたちで。彼らはいい感じでお姉さんたちにカモられていて、それでいてからかい合いながら、互いにその時間をとても楽しんでいるように見える。何だか素敵な光景だなあと感じて、「これは歌にしよう」と思い、自分の昔の彼女や幼馴染との思い出や創作を混ぜ込んで作った曲でした。

――なるほど。この曲って、原曲バージョンからもすでに桑田エッセンスが感じられますよね。

田内:実は、まさに桑田さんの音楽からインスパイアされて書いた曲でして。サザンの「ラチエン通りのシスター」と「素敵なバーディー(NO NO BIRDY)」と「涙のキッス」を掛け合わせて、自分流に昇華させるようなイメージで作った曲だったんです。

――あ〜、なるほど! 桑田さんの反応は?

田内:「いい曲じゃん」と言ってくださって、その場で「ここのコード、このほうがよくない?」とか「ここのフレーズはこうだとどう?」とアドバイスをくださいました。でも、その時は突然の展開な上に、僕は譜面も読めないし音楽理論にも疎いので、桑田さんのおっしゃっていることがあまりピンときていなくて、拍とかも中途半端に解釈していたんですよ(笑)。でも、思えば桑田さんの中では、もうすでにあの時点で今回の完成形が見えていて、そのための足らないパーツをその場で集めて授けてくれていたんだなって。

――プロデューサー・夏 螢介 a.k.a. KUWATA KEISUKE、さすがの慧眼ですねえ。

田内:本当に。僕がそれにようやく気付かされたのは、レコーディングスタジオに入ってからのことでした。

「自分の曲が、こんなにも変わるものなのか」

――夏 螢介 a.k.a. KUWATA KEISUKEのプロデュース・編曲が施された新生「深川のアッコちゃん」。原曲の魅力を活かしつつ、フォークバラード調だった当初のアレンジから一転、キャッチーでポップな魅力が加味され、歌謡感でありメジャー感を備えた軽快なナンバーに生まれ変わっていますね。

田内:まさにそうですね。自分の曲が、こんなにも変わるものなのか、と。今回のお話が決まった時、僕は桑田さんがアレンジされるのなら、「もしかしたら、もっとゴリゴリの昭和歌謡に生まれ変わるのかな?」という予想もしていたんです。でも、実際にはThe Beach Boysの「Wouldn't it be nice(素敵じゃないか)」(1966年)の頃を思わせるようなサウンドと、深川の情景を融合させたようなメロディとアレンジにしていただいて。実際、僕自身、この曲は自分の生まれる前の時代を思い描いていたんですが、そういうことまで言わずとも汲んでくださったかのようでしたね。

――レコーディングは、桑田さんと一緒にされたのでしょうか?

田内:はい。スタジオで、細かい装飾音やオルガンの入り方を桑田さんが組み立てる様子を間近で見て、しかもコーラスまで入れてくださって……スタジオでは、あまりに僕が食い入るように見ていたせいで、桑田さんから、「何か(距離が)近いな」って言われたぐらいで(笑)。……もう、ずっとぶったまげていましたね。

――しかも、演奏はキーボードの片山敦夫さんをはじめ、長年桑田さんとご一緒されているベテランの皆さんが参加されていますね。

田内:僕は片山さんの鍵盤の音に憧れていたので、スタジオで聴いて泣きそうになっちゃいましたね。特に感動だったのは、原曲の〈桜を見ながら歩いている〉というやや抽象的だった歌詞を、桑田さんが〈夜明けを待てば 紫の空に〉と、桜の背景をさらに広げてくださった上に、片山さんが和風な音を入れてくださったあたりで。自分で作った時には見えなかった桜の情景が見えて、「音で映像を投写する」というのはこういうことなんだなと思い知らされました。

――歌詞も、“補作詞”という形で、細部に桑田さんのリライトが施されています。個人的には、〈聞き飽きた話と揶揄われて 不器用なりにも生きてきたよ〉〈『不動』の鐘が優しく鳴る〉からの〈深川にゃ海などありゃしないさ〉という新たなくだりに、桑田佳祐“らしさ”であり“凄み”を感じました。

田内:そう思います。元は〈波音〉だった歌詞を〈『不動』〉に変えたのも桑田さんのアイデアでした。「深川って海ないしさ、ほかに鳴るものある?」と言われて、「そういえば深川不動堂があるんですけど、鐘の音は聞いたことがないですね」と答えたら、「じゃあ、鳴らしちゃおうよ」と言われて〈『不動』の鐘が優しく鳴る〉という歌詞になったんですが……あとで調べてみると、深川不動堂の堂内には“平和の鐘”という鐘があって。それは東京大空襲で周辺一帯が焼けた後、B29が落とした爆弾の破片を鋳込(いこ)んで作られたものだったんです。つまり、この歌詞によって、偶然にも僕らが生まれる前、戦争が終わって、ようやく若者たちが自由に恋愛をできるようになった時代の空気をも内包したドラマが加味されたんですね。

――それは鳥肌が立ちますね。

田内:はい。やっぱり桑田さんってすごい人なんだなあと改めて思い知らされました。深川の街の情景が、それこそこれまで桑田さんが歌ってこられた江ノ島や鎌倉のように広がりましたし。僕は初めて鎌倉を訪れた時、桑田さんの音楽から受けた良い意味での先入観と合わさって、初めての浜辺がただの浜辺に見えなかった思い出があって。今回、桑田さんのおかげで、僕の中で深川もそういう街になりましたし、リスナーの皆さんにも、そんな風に感じていただけたら本当に嬉しく思います。

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