リンダ・キャリエール、47年間未発表だった細野晴臣プロデュース作品への想い 「まだ理解が追いついていない」

「47年前のプロジェクトについて、アルファ/ソニーから突然(アルバム発売の)連絡をいただいたあの衝撃的な日から一年経った今でも、まだ美しい古跡を歩いているような気分です。今ものすごい人生の経験をさせてもらっています」(リンダ・キャリエール)

 細野晴臣がプロデュースし、ほぼ完成していながら、47年にわたって未発表のままだったリンダ・キャリエールのアルバム『Linda Carriere』。2024年7月、その幻のアルバムがついに正式にリリースされて2カ月ほど経った。

 細野の提案により、オリジナルのマルチトラックテープをGOH HOTODAが新たにミックスし、最新型のヴィンテージサウンドとしてCD、レコードでのリリースと、サブスクリプションでの全世界配信が行われた。作品は、新たな生命を得て、広く聴かれている。当時を知る人たちも、まだ生まれてもいなかった若い人たちも、この作品が単に伝説としてすごいことだけでなく、音楽として2024年の今に通用していることに驚いているのではないだろうか。

 作品が制作されたのは1977年。村井邦彦の求めで、アルファ&アソシエイツとプロデューサー契約を交わした細野晴臣が取り組んだ第1作だった。細野が演出家だとしたら、主役に抜擢されたのは、当時24歳で新進のアメリカ人シンガーでニューオリンズ生まれでフランス人の血が流れるクリオールの、リンダ・キャリエール。楽曲は、細野、山下達郎、吉田美奈子、矢野顕子、佐藤博の書き下ろし。英語詞はジェームス・レイガンが担当した。演奏は、細野を中心としたティン・パン・アレー(鈴木茂、林立夫ら)、あるいは当時の山下達郎のレコーディングメンバーであった坂本龍一、村上秀一、松木恒秀らが担った。

 1976年12月に細野と村井の話し合いによりプロジェクトはスタート。現地オーディションでのリンダの抜擢、作曲とアレンジの遂行、来日してのレコーディングまで、わずか半年も経たないスピード感だった。Dr. Buzzard's Original Savannah Bandなどアメリカのディスコやソウルミュージックに影響を受けながらも、日本生まれのオリエンタリズムを隠し持つ音楽性は、まさに細野が一貫して志向していたものだった。

 しかし、当時のアメリカのレーベル関係者の反応が芳しくなかったため、アメリカでの成功を期するうえでの村井の判断により、アルバムはまさかの発売中止になってしまった。この画期的な試みの反応を探るためラフミックスの段階でわずかに制作されたテストプレス盤が、後年、幻のレアアイテムとして中古市場を賑わせることになるのだが、当時はそんなことは誰も知る由がない。未完に終わったプロジェクトを細野は大いに残念に感じたが、立ち止まっているヒマもなかった。結果的に、ソロ活動とYMOの間に存在するはずだったこのアルバムは、長い間、ミッシングリンクとして人々を渇望させる存在になった。

 当時レコーディングで来日して以降、1999年に発売を試みた際にやり取りはあったが、それ以降音信不通となり、リンダ自身の行方も分からないままだったという。リンダにとっても、突然デビューの道が閉ざされるという状況は決して愉快とは言えないものだったはず。長い年月と、スタッフの尽力もあって、ついに実現したアルバム『Linda Carriere』に寄せて、リンダはブックレットにテキストを寄せている。興味深いのは、当時の経緯や楽曲について語る彼女が文章の主語として「she」や「her」という三人称を採用し、自分とは少し距離を置いて表現していたこと。後にソウルグループ、DYNASTYの一員として成功し、ミュージシャンとして充実したキャリアを送った彼女にとって、おそらく、現在の彼女の前に現れた、存在していたかもしれない別世界の自分の姿や歌声を、きちんと受け止めるのにはまだ少し時間が必要だったのだろう。

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