飯島真理は音楽とどのように向き合ってきたのか ベスト盤を機に聞く、40年のキャリア

 1983年9月にアルバム『Rosé』で本格的にデビューしてから、早くも40年。飯島真理がキャリアを総括するベストアルバム『All Time Best Album』を発表した。ビクター、ムーン(ワーナー)、そして自身のレーベルであるmarimusicからリリースされた全作品からセレクトされた楽曲が、それぞれテーマの違う3枚のディスクに並べられている。コンセプトアルバムとしても楽しめるユニークなコンピレーションだ。

 今回はこれまでの40年を総括し、彼女がどのように音楽と向き合ってきたのかを聞いてみた。かなり駆け足ではあるが、飯島真理という唯一無二のシンガーソングライターの足跡を一緒に体感してもらいたい。(栗本斉)

坂本龍一、吉田美奈子…錚々たるプロデューサーを迎えたビクター時代

2022年、LAでのライブ

――飯島さんはいつごろから音楽に触れあっていたのでしょうか。

飯島真理(以下、飯島):母がエレクトーンをやっていて、兄も習っていたので、私も自然にピアノを弾くようになりました。あと、父がよくThe Brothers Fourなどのコーラスグループを聴いていましたね。いわゆるオールディーズポップスみたいなのが中心でした。コンサートなどの音楽会に行くことも多かったし、音楽に触れる機会は多かったと思います。

――能動的に音楽を作ろうと思ったタイミングはいつ頃ですか。

飯島:小学4年生の時に、先生から「学級歌を作ってください」って依頼されたのがきっかけです。「大空はるか、雲が行く~♪」みたいな曲を父に手伝ってもらった記憶があります(笑)。それと兄の高校の先輩が後にシンガーソングライターや作詞家として活躍される小室みつ子さんで、学園祭で演奏した音源を聴いたら、ユーミン(松任谷由実)と石川セリさんの曲を歌われていて、それに感動したんです。すぐにレコード店でユーミンと石川セリさんのレコードを買ってもらいました。

――そのあたりからずっと曲作りはされているのでしょうか。

飯島:自分でもやれるかもしれないと思って、ピアノの練習の合間に曲を作っていました。飼っていた犬の歌とか、高校野球の歌とか(笑)、子どもならではのテーマですけれど。今も段ボール箱の中に当時のテープが残っていると思います。それを繰り返しているうちに、18歳の時にデモテープをレコード会社に送るというところに行き着くんです。

――それはオーディションだったんですか。

飯島:何かの雑誌に「シンガーソングライター募集」って書いてあったんですね。それでデモテープを送ったら、電話がかかってきてビクターとデビューの話が進んでいきました。

――でも先にテレビアニメ『超時空要塞マクロス』の声優の話が舞い込んでくるんですよね。

飯島:まさか人生を左右することになるとは思わずに「オーディションあるけど、受けてみる?」って言われて、原宿のスタジオに行ったことを覚えています。あの頃はチャレンジが好きだったし、怖いものなしだったので、 そういう機会があるんだったらどこにでも行って力試ししたいと思っていました。そうしたら、1週間くらいで「あなたに決まりました」って電話がかかってきてびっくりしました。

――シンガーソングライターの予定が声優でデビューということで、葛藤はありましたか。

飯島:自分で書いた曲を歌うということをとても大事に考えていたので、“声優”っていう肩書に40年経っても慣れないんですよ。私はあくまでもシンガーソングライターであって、たまたまリン・ミンメイの役に選んでいただき演じただけなので、声優と世間から見られることには戸惑いもあったし悩みました。ただ、『マクロス』はめくるめく音楽が物語を紡いでいくアニメですし、とても重要な経験だったと思います。

――そして念願叶って、1983年に1stアルバム『Rosé』を発表します。坂本龍一さんがプロデュースすることになったのは、どういう経緯だったのでしょうか。

飯島:私がリクエストしました。すごく憧れの人だったし、矢野顕子さんのプロデュースもされていたから、まったく違和感はないだろうと思いました。最初に坂本さんの事務所に行って面接というか、オーディションのようなことをしたのも覚えています。

――実際のレコーディングはいかがでしたか。

飯島:私のデモテープをベースに坂本さんがアレンジしてくださったんですが、かっちりと多重録音してアレンジしていただいたのもあるけれど、ミュージシャンをスタジオに集めて「せーの」で録った曲の方が多いかもしれない。もう夢のようなセッションだし、出てくる音がすべて素晴らしくて感激しました。まだ新人だったから自分がイニシアチブを取ることはできませんでしたが、嬉しくて楽しいレコーディングでした。大村憲司さんとの出会いも大きかったですね。

――実際に『Rosé』が出来上がってどう思われましたか。

飯島:実はボーカルが小さいなと思って、マスタリングをし直せないかとお願いしたことがあるんです。却下されましたが、その後リイシューされた際に少しボーカルがクリアになるようにリマスターしてもらったこともあります。でも、客観的に聴いてみると、結局オリジナルがいいんですよね。オリジナルの作品がきちんと残せていることは、あらためて素晴らしいことだと思います。

――半年後には2ndアルバム『blanche』(1984年)がリリースされます。しかも、吉田美奈子さんのプロデュースでした。

飯島:当時、山下達郎さんと吉田美奈子さんは一番よく聴いていたアーティストだったんですよ。それは嬉しかったのですが、なかなか大変なレコーディングでしたね。1stから半年しか経っていないから、アルバム全曲分の楽曲を書き終えていなかったんです。スタジオでギリギリまで書いていたこともあるし、そうやって頭を抱えているときに吉田さんからアドバイスしてもらうこともありました。

――『Rosé』と『blanche』ではかなり雰囲気が変わりますよね。陰と陽というか。

飯島:そういう音になったのは、そうなる理由があった、というのが私の答えです。当時、ラジオのキャンペーンなどでも聞かれましたが、どう答えていいのか難しかった。とにかく悩んで苦しんだ作品です。

――3枚目の『Midori』(1985年)は、清水信之さんのサウンドプロデュースです。

飯島:清水さんは坂本さんや吉田さんよりも年齢が近かったし、親近感があってとてもやりやすかったですね。どちらかというとアレンジ面でのサウンドプロデューサーとしての関わり方でした。あと、一番ありがたいと思ったのが、私のことを「ピアノが上手い」って言ってくれたんですよ。ピアノを弾く私という一面を重視してくれたとても貴重な存在でした。自分の楽曲のイメージが崩れることもなかったですし、楽曲の個性をそのまま完成形にしてくれたという印象です。

――『Midori』で手応えを感じて、4枚目の『KIMONO STEREO』(1985年)につながるということですよね。ロンドンレコーディングはどのような経緯で決まったのでしょうか。

飯島:自分が好んで聴く音楽もどんどん変わってきて、小学生の時がユーミンや石川セリさんだったとすれば、この頃にはイギリスの音楽に夢中でした。中学生の頃、QUEENやエルトン・ジョンにすごく影響を受けていたので、スタッフがそんな私を見て「次はロンドンでどうでしょう?」っていう話になりました。当初はスタッフが(The Beatlesを手がけた)ジョージ・マーティンにプロデュースをお願いしたいと思っていたはずですが、さすがにそれは叶いませんでした。でも、結果的に3人のアレンジャーが参加してくれたことでそれぞれ良かったと思います。

――初めての海外レコーディングがスムーズだったことは、後のキャリアに繋がっているように思います。

飯島:そうかもしれないですね。この時、ちょっとハッピーなミステイクがあって、ディレクターが間違って2人のアレンジャーに同じ曲を渡してしまったんです。それが「3つのルール」。アップテンポでポップなアレンジと、まったりとしたレゲエっぽいリズムのリプライズと2バージョン入っているのはそういうことなんです(笑)。でも私は、偶然というのは世の中にないと思っているので、結果的にこうなったのは必然だと思っています。

――ビクターからリリースした4枚のアルバムを振り返ってみて、飯島さんの中ではこの時代はどういう位置付けなんでしょうか。

飯島:この時代の自分の作品は初々しいですし、ボーカリストとしての頂点はこれらよりも後の時期なんですよ。だから複雑な気持ちではあるんですが、でもこの時期が好きだと言ってくださるファンの方も多くて、実際ビクターさんからは何度もリイシューしていただいていますし、自分の基盤を作ってくれた貴重な時間だったと思います。

――そもそもビクターからムーンに移籍する話はどのように始まったのですか。

飯島:デビューの時からずっと同じスタッフと一緒で、いろんなことが起こるし、こういうのも人間関係で変わるものなんですよね。例えば、自分で書いた曲を歌うことが私にとってとても大切なことだったのに、「他の人が書いた曲も歌ったら?」って言われることもあって、いろいろ悩んでいる時期に、たまたま山下達郎さんが「ムーン・レーベルに来ない?」って声をかけてくれたんですよ。

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