Creepy Nuts、『生業』ツアーで見せた初期衝動と新章 「ビリケン」を語るライブ後インタビューも
最先端のスタイルを“自分の音”として鳴らした「ビリケン」での試み
続くMCパートでは、「良い空気以上に熱い空気を作ってくれた」と緑黄色社会への感謝の言葉を重ねるCreepy Nuts。そして緑黄色社会のメンバーが愛知出身であることに触れ、「名古屋はヤバい音楽が鳴ってる街。そこで俺たちが見せるのは、俺のラップと松永のDJという得意技。それが生業」という言葉に続き「生業」へ。R-指定のメッセージに対して、音の抜きでその言葉を強調する松永とのコンビネーションからも、この楽曲で何を表現したいのかが大いに伝わる。そして“ヒップホップ的な自己優位性”を形にする「生業」から、自己の持つ加害性を振り返る「デジタルタトゥー」、過去と現在の自己認識のあり方を内省する「15才」と、アイデンティティに関わるシリアスな楽曲が続き、そんな人間を取り巻く街を客観的に描く「ロスタイム」で、このセクションを締めた。
最後のMCでは「普段味わえないような高揚感や、見られないような光景が見れるのが対バン。自分のラップも松永のプレイも、ちょっとずつ成長していると思います」と今回のツアーの手応えを語るR-指定。そして「今が最高やけど、明日の俺、明後日の皆さんに比べたら(今は)全然ひよっこです。皆さん、のびしろしかありませんよね!」という言葉から「のびしろ」、そして「かつて天才だった俺たちへ」と、未来への希望を強く感じさせる楽曲で、この日のライブを閉じた。
さて、改めて「ビリケン」について考えたい。レポートの中でも述べたように、この曲はジャージークラブをビートの骨子として採用している。ドレイクやNewJeansをはじめ、このビート感やドラムの打ち方は世界的な流行になっているが、やはりCreepy Nutsがそういった“先端性”に対して真っすぐに、そしてシングル曲としてアプローチしたことにはやはり驚かされた。直近のCreepy Nutsの楽曲はD.O.I.とのタッグも影響して音の鳴りやディティールの部分では現在進行形だが(その意識は『Sound & Recording Magazine』でのCreepy Nuts特集記事にも詳しい)、「のびしろ」や「堕天」といったリード楽曲の音像には、バンド的な聴感も含め、オーセンティックなポップスシーンにもアプローチし得る、DJ松永の独特なポップセンスが強く出ていた。しかし、今回の「ビリケン」はそういったバンド的な音像ではなく、一気にダンスビートへと寄せて、打ち込みでしかなし得ないサウンド構成が印象的だ。
そして『生業』ツアーを通して感じたのは、そのダンスビートの鳴りの良さだ。筆者がライブで「ビリケン」を最初に聴いたのはマキシマム ザ ホルモンとの対バンの際だったのだが、ホルモンの轟音ライブに対して、真っ向から“鳴り”として「ビリケン」のビートが拮抗していたことに、単純に驚かされた。その音の粒立ちには、前述の『Sound & Recording Magazine』で語られていたような松永の音へのこだわりが形になっているのだろうし、フェスやホールなども含めた数多くのライブでの経験が、その“ライブでの音の映え”に作用していることは想像に難くない。
また、それに乗るR-指定のラップも、フリーキーなフロウと発声を駆使しているが、それが彼のスキルの高さを表明すると同時に、ライブにおいても観客を否応なく刺激する材料になっていることが、今回の『生業』ツアーでのパフォーマンスで感じさせられた。この曲にあるようなストレンジなフロウは、アルバム曲や梅田サイファーの曲では確かにすでに形にしていた。だが、ビートと同様に、そういったアプローチをリード曲として打ち出したことには驚かされた。この内容とフロウを歌番組で披露する可能性が大いにある、という事実も含めて。
しかし、そういった場所や広範なリスナーに対して“わかりやすく置きに行く”のではなく、あのフリーキーなフロウと、一聴しただけでは意味の通じにくい奇天烈なリリックを打ち出したチャレンジは非常に興味深いし、これまでにも『BUBKA』の連載「Rの異常な愛情」などで「最先端のスタイルを自分のモノにしたい」と常々話してきたR-指定が、その意識をCreepy Nutsとして形にするには、ジャージークラブのようなビートは最適解だっただろう。そして、それをライブで表現するラップ鬼神ぶりたるや。後ろに乗るシャウトなどはオケに入っているものだが、メインのラップをマイク一本で歌い上げるスキルと、ラップに対する貪欲さは、彼をスターラッパー足らしめるものだ。
また内容としても、デビュー初期の“自己キャラクター化”から、『Case』での“内省”、そして『アンサンブル・プレイ』という“物語の構築”の先にあったのが、「ビリケン」のような先端技術への憧れと対抗だったことは興味深い。また一方で、彼らにとっては2000年代中盤のジャージークラブの流行からの影響や、リル・ジョンなどビートの原体験を現在の形にしている部分も世代的にあるだろうし、この曲が彼らの音楽的な初期衝動への立ち返りなのでは? と予想すると、「原点回帰であり、先端思考である」という、相反する意識を「ビリケン」に落とし込んだのではないだろうか。その意味でも、Creepy Nutsの統合と新章を感じさせる一曲だ。