【浜田麻里 40周年インタビュー】第3弾:初のレーベル移籍&長年にわたるライブ活動休止に至った背景とは? 世界的な活動の裏で抱えた“理想の環境とのギャップ”

「プロデューサーが引きずる問題の調整役も担っていた」

ーー最初の事務所ですもんね。さて、「Border」が収録された『Anti-Heroine』(1993年3月)は、『TOMORROW』を受けてどんなアルバムを作ろうと思っていたんでしょう?

『Anti-Heroine』

浜田:『TOMORROW』も『Anti-Heroine』もとても好きなアルバムです。ポップ系の代表作だと思っています。グレッグとのレコーディング期間は終盤でやっぱりまた揉めて、「もう嫌だ」みたいな気持ちがあって。海外リリース、それもメジャーに門戸を持つMCAビクターへの移籍だったということもあり、日本をメインとしながらも世界視野でのリリースを念頭に置き始めました。なので、新しいことをやりたかったんです。マイク・クリンクもグレッド・エドワードも、プロデューサーというよりは、どちらかと言えばエンジニアの匂いが強い人たちだったんですね。そんなときにMCAがマーク・ターナーを見つけてくれて。そこで環境はすごく変わりました。

――マーク・ターナーはプロデューサーとしてどういう個性がある人なんでしょう?

浜田:マークはコマーシャルなアメリカンハードロックの作曲家でした。ミュージシャンというより、シンガーですね。ちょうどNelsonが大ヒットしていて、彼はそのプロデュースをしていました。今、『Anti-Heroine』を客観的に聴くことはないですけど、完成度も高いし、いい意味でコマーシャルな部分とアーティスティックな部分が混ざり合った、いいアルバムになったなとは思うんですね。ただ、その1枚でマークとはお別れしたっていう流れからも明らかなように(笑)、やっぱり人間性的なものってあるじゃないですか。私には受け入れられない類の人でしたね。

――相性の良し悪しはどうしてもありますよね。

浜田:相性というか……グレッグとはまた全然違う、ちょっとダメなところがあって。フックを意識した曲を作るっていう意味では相応の才能がある人で、結果的には私もいい影響を受けたとは思います。とはいえ、いろんなプレッシャーや時間的制約がある中でいいものを作っていかなきゃいけない状況では、一緒に仕事をしたい人格者ではなかったなとは思いました。

――そのプレッシャーというのは? 当然、レコード会社から一定以上のセールスを期待されているという面も一つあると思いますが。

浜田:そのときMCAビクターには他の邦楽アーティストがまだいなかったので、私の稼ぎがレーベルの行く末を左右する状況でした。その分、会社を挙げて私をバックアップしてくれていましたので、感謝とともに大きなプレッシャーも感じ、背負っていましたね。マークのパーソナリティに関しては良いイメージはないですが、彼の曲の作り方も含めて、今の私のやり方の一端はそこにあるのかもしれないなとすら思うんです。ある程度までできているデモを叩き台にして、どんどん発展させていって、ヒット性を含む曲にまで昇華させる――マーク・ターナーはそういうやり方をする人だったんですね。でもそれは、周りからの大きな信頼を得てこそ実現すると私は思うんです。そこに、ある意味の絶対的な正当性がなければならない、ということです。マークは結構いろんな問題を引きずっていて、その調整役も私が半分は担ってたんです。たとえば著作権のことですね。

 当時は大槻(啓之)さんの曲が多くて、私が新しいメロディをつけて共作したりしてたんですけど、アメリカに行く前に、デモをほぼ完璧にしていくわけですよ。ところが、そこにちょっと手を入れた程度ではあっても、(マーク・ターナーは)自分の名前をクレジットの一番先に置こうとしたりしていたんです。そこで、日本のミュージシャンの権利を守るために、私が動いたつもりでした。実際どういう作業をしたのか日本のスタッフは誰も知らないし、よくわからない。だから私が調整するしかないんですが、なぜか次第に邪推されていったんだと思います。悲しかったですね。逆に自分がしっかりやった結果に対して、ちゃんと権利を主張するっていうアメリカのやり方も学んで、いろいろ勉強にはなりましたけど。

浜田麻里「Hold On (One More Time)」

 それから、インターナショナルデビューもその頃だったんですよね。英語曲については、ネイティブの方々の耳にも馴染む発音で歌うために、時間をかけ、努力もしました。日本人のアクセントを感じない英語で歌わなければならない。それも今とは少し違う、一つの時代感だったと思います。そういうトライをして丁寧に作ったアルバムですので、満足度は高かったです。『TOMORROW』『Anti-Heroine』の辺りは、アルバムの質もすごく上がっていった時期ですね。『Anti-Heroine』の英詞曲「Hold On (One More Time)」はシンガポール、インドネシア、マレーシア、タイなど、多くの国で大ヒットしたんです。

――『Anti-Heroine』収録曲には、様々なタイアップがついていましたよね。その事実から、客観的に浜田麻里というアーティストがどんな位置づけだったのかが見えてくると思います。

浜田:一般的な部分で言えば、やっと成功しているアーティストに片足をつっ込めた感じはあったかもしれません(笑)。私の場合、作品に対する満足度が高いことは絶対的に必要で、それが活動のベースになってるんですよね。どうしてもファンの方々はライブ、ライブってなるんですけど、私は子供の頃のレコーディング畑からキャリアが始まっているので、まずレコーディングありきなところがあります。ライブとして歌うのは、そこから派生するものという感覚なんです。いまだにそれが逆転することはなくて。その辺りの感覚はファンのみなさんと若干乖離があることを、ずっと感じてきました。それこそ新しい作品がなくても、ライブだけはやってほしいって声は多いじゃないですか。

――実際にライブ会場で体感する浜田麻里の歌声は凄いわけですよ。それは歌っているご本人だからわからないと思いますが、だからこそ、アルバムがなくてもライブだけはしてくださいという声にもなるんです。

浜田:でも、ライブをやめてしまったんですけどね(笑)。

――そういう流れになっていきますね。この『Anti-Heroine』のリリースに伴うツアーが、国内で9年間もライブ活動を休止する前の最後のものになった。

浜田:はい。だから、コアなファンじゃない人たちは、「浜田麻里って見なくなったね」「売れなくなってフェードアウトしたんだね」みたいな印象を持ってたと思うんですけど、チケットも即完で満杯の日本武道館(1993年6月18日)もやりましたし……あのときは1日でしたけど、たぶん1日じゃないと嫌だって私が言ったんですよ。

――仮に3日間やったとしても、売り切れてしまう状況だったと思いますけどね。

浜田:時期としては一番集客力もあったと思います。そのときの武道館を最後に、パッとライブをやらなくなるっていう。いきなり消えたんですよね。また極端な行動なんですけど(笑)。

――ええ。アルバムセールスで言うならば、一番売れていたときにライブ活動をやめた。「なぜ?」と、みんなが思ったはずなんですよね。

浜田:そうなんですよ。シングルとして最大のヒット作は『Return to Myself 〜しない、しない、ナツ。 』って書いてあるのをよく見かけますし、今でもテレビ番組に呼ばれるときに「『Return to Myself』を歌ってください」っていう依頼が一番多いんですけど、実はアルバムとしては『TOMORROW』とか『Anti-Heroine』のほうが売れてるんですよね。商業的には最も成功していました。『Anti-Heroine』では「Cry For The Moon」という結構落ち着いた曲を代表曲として打ち出していたんですよね。今でもとても人気が高い曲です。ブレット・ガースドのアコースティックギターもハマりましたし、強く押していく時代から、安定の時代に入って。自分としても、着実に自信を持てるようなアルバムが何作か続いたという思いがありましたし、一番いい時期だったとは思います。

浜田麻里「Cry For The Moon」

――あの日本武道館公演を最後にライブ活動をやめると決意したのは、いつのことだったんですか? そのツアーが終わってからではないですよね。

浜田:記憶が定かではないんですけど、ツアーがあまりにも辛くて、それにもう耐えきれなくなったので、きっとツアー中でしょうね。スタッフに決心を伝えたのはその後だったと思いますけれど。

――辛さというのは体力的な面ではなく、バンド内の問題ということですよね。

浜田:そうですね。バンド内、そしてスタッフ内の意識と、自分との大きな乖離です。いろいろなことが一気に表面化して。自分としては、次に向けて何を目指すか、アーティストとしての展望みたいなものもあるわけですよね。『Anti-Heroine』の頃には、シンガーとしても音楽的にも、「もう次に行きたい」っていうふうに思っていて。でも、同じ気持ちでいてくれる人が周りに1人もいなかったんです。まぁ、孤独は好きなので、孤独に耐え切れないわけではなかったですけど、このままではやっていられないなっていう気持ちになっちゃったんだと思います。

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