the band apart 木暮栄一「HIPHOP Memories to Go」第12回 3rdアルバム制作時に見た“アンダーグラウンドvsメジャー”の対立

 the band apartのドラマー・木暮栄一が、20年以上にわたるバンドの歴史を振り返りながら、その時々で愛聴していたり、音楽性に影響を与えたヒップホップ作品について紹介していく本連載「HIPHOP Memories to Go」。第12回はメンバー全員が曲作りに挑んだ、2006年リリースの3rdアルバム『alfred and cavity』制作秘話や、当時聴いていたというヒップホップに迫る。日本のヒップホップが冬の時代に突入しようとする中、木暮自身はアンダーグラウンドvsメジャーの対立構造を明確に楽曲から感じ取っていたのだとか。木暮による貴重なアルバム『alfred and cavity』全曲解説も載っているので、お見逃しなく。(編集部)

業界の在り方を全方位的に斬り捨てるILL-BOSSTINOのラップの衝撃

 この稿を書いている現在、例年の如く「あっ」という間に桜も舞い散り、新たな門出に身を引き締めていたフレッシュマンたちの緊張もほぐれ、各々の環境にも慣れてきたであろう、そんな季節。

 外は春の雨が降っている。そのせいか仕事場である半地下のAGスタジオには冷気がこもり、ひんやりとしている。

 我々the band apartの当初のスケジュールでは、9枚目となるアルバムのレコーディングをすでに終え、4月下旬からはツアーに向けて少しずつライブを増やしながらステージ勘を取り戻す、そんな期間……のはずであった。しかし、2月初旬に始まったレコーディング作業は、信じられないことに今もまだ続いている。

 長引いている理由はただ一つ、「曲ができていないのにレコーディングに突入」したから。

 前回のコラムで書いた2ndアルバム『quake and brook』録音時の様相、そこから約20年の時を経たものの、潔いくらい何の進歩もしていない……どころか、輪をかけて酷くなっていると言っても良い。今回はバンド史上初、「予定していたレコ発ツアーまでに音源の発売が間に合わない」という体たらくである。現段階では配信すらも期日(?)通りにできるか非常に怪しい(たぶん無理)。

 そんな状況下にありながら、「それならば音源発表前に新曲を披露していくツアーということにすれば良いのではないのでしょうか」などと宣って喫煙所で紫煙を燻らせつつ駄話に花を咲かせることに関しては一切の妥協がないのだから、視点の逃避的変換の速さとぐうたら根性には、しっかりと20年分の磨きがかかっているのだった。

 それに比べれば、2006年の僕たちにはまだまだ締め切りに対する生真面目さがあったと言えるだろう。というわけで今回は3rdアルバム『alfred and cavity』を制作・リリースした頃の話です。

 2ndアルバム『quake and brook』をリリースしてからバンドの状況は大きく変わりつつあった。端的に言えば、ライブを観にきてくれる人たちが今までとは比較にならない規模で増えたのである。リリースツアーではソールドアウトする会場もちらほらあり、少し前までチケットノルマを払って演奏するのが当たり前だった僕たちからすれば信じられない状況の変化だった。今まで縁のなかったようなイベントやフェスに誘われることも多くなり、HAWAIIAN6やDOPING PANDAといったブッキング時代からの同輩バンド以外の繋がりも徐々に増え始めた。

 さらにK(当時の事務所社長)が運営していた会社と正式に出版・マネージメント契約を結び、印税の前払いという形で月々決まった額のお金がもらえるようになった。20代半ばの僕たちからすれば、「え、バイトしなくても家賃払えるじゃん」と有頂天になるには十分な出来事だ。

 今振り返れば、その契約内容はなかなかふざけたものだったのだけど、“著作権”と検索して簡単に情報が得られるような時代ではなかったし、そもそも友達同士でやっていることなのだから不誠実な内容であろうはずがない、という信頼もあった。よって、その契約に含まれていた微妙な搾取に気がつくのはまだ先のことになる。

 1990年代後半から2000年代にかけてのインディーズバブル期には多くのバンドとインディペンデントレーベルが生まれた。そんな中、バンドの無知を逆手に取って甘い汁を吸うレーベル関係者の話は珍しくなかったし、ブッキングしたバンドにギャラを払うどころか必要以上のチケットノルマを割り振り、その余剰分をアガリとして懐に入れて稼ぐ自称イベンターなども多くいた。

 アンダーグラウンドだった音楽がもはや“アンダーグラウンド”とは呼べない規模に拡がり、都内の主なライブハウスのブッキングが埋まらない日はほとんどない、そんな隆盛を目の前にして金の匂いに敏感な有象無象が群がってくるのもまた資本主義の必然なのだろう。

THA BLUE HERB「A SWEET LITTLE DIS」

 上述したのは僕が実際に見たバンド界隈の一部の例だが、同じようなタイミングでポピュラーミュージックとしての市民権を得つつあったヒップホップシーンも大同小異の状況だったようで、そんな当時の空気をわかりやすく記録していると思う曲が、 THA BLUE HERB「A SWEET LITTLE DIS」。〈時弊極まり、ヒップホップはコマーシャルや喫茶店のバックミュージックになり下がり〉という歌い出しには、ヒップホップの流行音楽化に対する強烈な拒絶が滲んでいる。

 この時代の“ヘッズ”と呼ばれていたハードコアなヒップホップファンの気分を爽快に代弁していくこの曲のリリックは、同時に当時のコアなシーンにあった閉鎖性の逆説的な証左にもなっている。

 音楽でお金を稼ぐのはもちろん悪いことではないし、いわゆる「メイクマネー」的価値観はヒップホップの初期からある典型的な歌詞のトピックの一つだ。しかし、憧れたローカルヒーローたちの成功の先にあるのが、セレブレティの仲間入りなのか? そうした旧弊に馴染めなかったアウトサイダーたちが発明したアートこそアンダーグラウンドと呼ばれていた音楽の出発点であったはず、お前らは現在の姿に胸を張れるのかーーテレビやラジオなどのメディアへ進出し始めたラッパーたち、それを取り巻く業界関係者などを全方位的に斬って捨てるILL-BOSSTINOの冴えたラップは、スキルが倍化させる説得力を伴って日本語ラップが次の段階に来たことを感じさせてくれた。

 この曲を2枚使いしたDJ BAKU『ANGRY HIPHOP FOR 3RD CHILL』や、USのラッパーを模倣する日本のメジャーアーティストのスタイルをディスったMSCなど、90年代のそれより重層化した「アンダーグラウンドvsメジャー」「先達vs後進」の図式が各所に見られると同時に、「リリックの意味性とライミングの両立」「ディスのエンターテインメント化」という点において大きな進化を遂げた時代だったと言えるだろう。

 しかし、個人的にこの時期によく聴いていたヒップホップと聞いてすぐに思い出せるのは、連載の第9回目にも書いたファレル・ウィリアムスとカニエ・ウェスト関連などUSの作品ばかり(ベタですいません)。ファレルに関してはソロ名義以外の、例えばJay-Z『The Black Album』収録の「Change Clothes ft. Pharrell」だったり、Snoop Dogg「Drop It Like It’s Hot ft. Pharrell」「Beautiful ft. Pharrell, Uncle Charlie Wilson」など、次から次へとクラシックを世に送り出していた時期。別ユニットのN.E.R.Dもヒットしていたし、ファッションアイコンとしての側面も含め、まさに時代の寵児として一世を風靡していた。

 アメリカにおいては現在に至るまで、右肩上がりでメインストリームを席巻し続けているヒップホップだが、日本ではこの頃からなぜか冬の時代が始まっていく。再び世間的な脚光を浴びるのはもう少し先の話である。

JAY-Z - Change Clothes ft. Pharrell
Snoop Dogg - Drop It Like It's Hot (Official Music Video) ft. Pharrell Williams

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