米津玄師「POP SONG」、リズムのなかに埋め込まれた演じることへの関心 「感電」との対比から分析

 結果として、「POP SONG」のボーカルが刻むリズムはやや人工的というか、“つくりもの”のように感じられる。感情の表出とも、あるいは表現ともいいがたいごつごつしたグルーヴ感は、この声が放っているメッセージをどれだけ真に受けていいか――〈全部くだらねぇ〉と切り捨てるニヒリズムをどれだけ真に受けうるか――の判断を保留させる(そもそも歌というフィクションを真に受けるとはどういうことか、というのもややこしい問題ではあるのだが、そこはおいておく)。あえて棒読みしてみせることで、「これは演技です」と伝えるかのような、リズムのレトリックがはたらいている。「感電」のボーカルが、身体性のうちに感情移入する余地を豊かに残して楽曲の持つドラマに陰影を与えていることと、やはり対比したくなってくる。

 最近の米津玄師をみていると、古典落語をしたじきにした「死神」であれ、演じること、キャラクターを纏い、キャラクターに身を委ねることそれ自体への関心が前景化しているように思える(「Flamingo」もそのように感じられる)。「POP SONG」ではそうした志向がリズムのなかに埋め込まれている……のかもしれない。まあ、それをもっとも雄弁に物語っているのは、本人も自ら設定に携わったというあの印象的な装いで闊達に画面中を動き回る米津玄師の姿だろうが。

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