小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』エピソード7 パリーキャパとゲルダ 村井邦彦・吉田俊宏 作

エピソード7
パリーキャパとゲルダ ♯2

ジャン・コクトー(1923年)

「お二人にご紹介したい方がいます。彼は私の親友なのです」
 ヴォーダブルの後ろに鼻筋の通った痩身の紳士が立っていた。あの大きな目。雑誌や新聞で何度も目にしている顔だと紫郎は思った。坂本もすぐに気づいたようだった。ジャン・コクトーだ。2人は手にしていたコーヒーカップを置いて立ち上がり、フランスを代表する知識人に敬意をこめて挨拶した。
「おくつろぎのところ申し訳ありません。実は来年、日本を訪ねることになっているのです。日本についてお話をうかがってもよろしいでしょうか」とコクトーが言った。年齢は坂本と同じくらいのはずだ。
「もちろんです、コクトーさん。どうぞ、おかけください」と坂本が言うと、コクトーは紫郎の横に腰かけた。
「日本に行ったら友人のフジタには必ず会うつもりなんだけどね。ほかに誰を訪ねたらいいかな。君はどう思う?」
 コクトーは正面に座っている坂本ではなく、横にいる紫郎の目を見つめながら尋ねた。同年配の坂本に向ける言葉より、ずいぶん口調がくだけている。かつて彼が溺愛した作家、ラディゲにもこんな口調で話したのだろうかと紫郎は思った。坂本はその空気を察したのか、ニヤニヤしながら紫郎を見ている。
「そ、そうですねえ……。日本の伝統文化を知っていただきたいから、やはり歌舞伎役者でしょうか」と紫郎はコーヒーカップに目を落としながら応えた。
「おお、カブキ。素晴らしい。カブキ、ノウ、ブンラク……。どれも素晴らしい。名案だね。そうすることにしよう。シロー、君はなかなかフランス語が上手だね。もうパリは長いのかな?」
 コクトーは紫郎の肩に手を回して言った。
「いえ、まだ1年余りですよ」
「ほお、それでこれだけ話せれば上出来だな。まだ若そうだが、年は幾つかな?」
「1913年。バレエ・リュスがストラヴィンスキーの『春の祭典』を初演した年の生まれですよ。僕はモンテカルロで『春の祭典』を見ました。コクトーさん、あなたはバレエ・リュスでも素晴らしい仕事をされていますね」
「ああ、感激だな。君はそんな古い話まで知っているのか」
「ラディゲは1903年生まれでしたね。僕はまだ東京にいる頃、堀口大學という詩人が訳したラディゲの『ドルヂェル伯の舞踏会』を読んで感銘を受けました。コクトーさん、ラディゲが亡くなった時はどんなお気持ちだったのですか」
 紫郎は一気にまくしたてた。坂本を見ると、眉をひそめて「ダメだ、ダメだ」と合図を送っている。それを訊くんじゃない、タブーだぞ、と言いたいのだろう。そんなことは承知のうえで尋ねているのだ。ストレートに訊くのが一番ではないかと紫郎は開き直った。
「シロー、君はすべて知っているんだろう? 僕がそれで長らくアヘン中毒になってしまったことも知っているんだろう?」
 コクトーは一瞬、あきれたような顔をして、これから泣こうか、笑おうか、決めかねたような表情で言った。
「深い悲しみから救ってくれるのは時間だけだと誰かが言っていました」
 紫郎はコクトーの目を見て言った。
「もう心の傷は癒えたかと訊いているのかい?」
「どうなんですか」
「ふふふ。君はユニークな若者だねえ」
「そうだ、日本では堀口大學さんにもお会いになるといいですよ。堀口さんは……」
 紫郎がそこまで話した時、大きな風船が割れたような鋭い破裂音がした。コクトー、坂本、紫郎、少し離れたテーブルの前に立っていたヴォーダブルの4人が一斉に身を低くする。
 さっきと同じ音がまた大音量で炸裂し、コクトーが小さく悲鳴を上げた。
 明らかに銃声だ。口ひげを生やしたドアマンが速足で入ってきてヴォーダブルに耳打ちしている。引き締まった体つきの中年男だ。ベルナールの上司だろう。
「なにっ、撃たれましただと? ドミニク、だ、誰が撃たれた?」
 ヴォーダブルが血相を変えて声を荒らげた。
「ムッシュー・サメジマです。店を封鎖します。皆さん、危険ですから、奥に退避してください」
 ドミニクと呼ばれたドアマンの長らしき男がよく通るバリトンの声で言った。しかし、すでに紫郎はコクトーの腕を振りほどき、猛然と走り出していた。
「ム、ムッシュー! 危険です。お待ちください!」
 ドミニクの叫び声が後ろから聞こえる。
 そこでもう一発、鋭い銃声が耳をつんざいた。近い。店の前か。急発進するエンジンの音がする。車ではない。あれはオートバイだ。
 鍵のかかったドアを開け、店を飛び出した紫郎は、走り去るバイクの後ろ姿を呆然と見送った。2人乗りだった。
「ム、ムッシュー、ムッシュー!」
 若いドアマンが仰向けになった背広の男にすがって泣き叫んでいる。鮫島のシャツはネクタイと同じ色に染まっていた。
「肩と腹だ。おい、ありったけのナプキンを持ってこい」
 紫郎は若いドアマンに怒鳴った。
「ナ、ナ、ナプ、ナプ、ナプ……?」
 彼は腰を抜かしたうえ、歯の根も合っていない。
「お前の店の商売道具だ。売るほどあるだろう!」
 そう叫んだ紫郎の手に大量のナプキンが差し出された。ドミニクと呼ばれたドアマン長だった。
「よし、あんたは左肩の傷口を押さえていてくれ。僕が腹を止血する。そうだ、その前に救急車を頼む」と紫郎がナプキンを裂きながら言った。
「今から呼んでもすぐには来ません。私が車を出します」とドミニクがバリトンを響かせた。
「わ、分かった」
 坂本とコクトー、ヴォーダブルも外に飛び出してきた。
「川添君、鮫島は?」と坂本が訊いた。
「まだ息はしていますが、出血が多くて……」
 ヴォーダブルが「ドミニクの車でアメリカン・ホスピタルに向かってください。電話で話を通しておきます。あの病院には信頼のおける友達がいますから、どうぞご安心を」と落ち着いた調子で言った。
「おーい、こっちにも被害者がいるぞ」
 コクトーがルノーの運転席をのぞきこんでいる。
 坂本があわてて駆け寄った。
「か、金田!」
 大声を上げた坂本の肩越しに、金田の後頭部が見える。彼は居眠り運転をするような格好で、ハンドルに突っ伏していた。
 ドミニクがルノーの大型車レナステラを店の前につけた。マキシムの従業員が5人がかりで鮫島と金田を乗せ、続いて坂本と紫郎が乗り込んだ。
「ドミニクは元軍人で、マルヌの戦いでも功績を上げた歴戦の勇士です。彼にお任せください。神のご加護があらんことを」
 ヴォーダブルが素早く十字を切った。
「時間がありません。シャンゼリゼ通りとヌイ通りはパリで最もスピードの出せる道です。飛ばしますよ。よろしいですか」とドミニクがアクセルをふかしながら言った。
「ああ、頼んだぞ。鮫島の命がかかっている」と坂本が叫ぶ。
 確かに、金田はもう息をしていないように見える。1発目は鮫島の肩に当たり、2発目が腹に命中したのだろう。2発目と3発目の間には、少し時間があった。3発目を食らったのが金田だとして、鮫島が撃たれたというのに、彼はずっと運転席にいたのだろうか。あるいは最初に撃たれたのが金田なのか。
「ドミニクさん、あなたは襲撃を目撃したのですか」と紫郎は訊いた。ルノーは猛スピードで凱旋門めがけて直進している。モーリス・アロンのルノーに乗ってカーチェイスを繰り広げた日を思い出す。レースの相手になった金田と鮫島が、今や瀕死の状態で同じ車に乗っている。夢にしては出来すぎの悪夢だった。
「私は店内のクロークの前にいました。最初の銃声を聞いて外に出ると、ムッシュー・サメジマが左肩を押さえながら走っているのが見えました。ムッシュー・カネダのルノーの陰に隠れようとしていました。私は店内に危険が及んではいけないと判断して店の扉を閉め、まずはボスに報告したのです」
 元軍人らしく、銃声を聞いても取り乱したりはしていない。ドミニクの記憶は正確だろうと紫郎は思った。
「僕はオートバイで逃げる2人組の後ろ姿を見ました。敵はバイクで急襲してきて、後ろに乗っていたやつが鮫島さんを撃ったのでしょうね」
「いや、どうでしょうか。あの銃声は拳銃で、ライフルではありません。走っているオートバイの後部座席から拳銃で狙いを定めるなんて……。もしそうだとしたら、よほど訓練された軍人か、殺しのプロです。私は射撃訓練では小隊でいつも1番か2番でしたが、それでも命中させる自信はありません。犯人が2人だとすれば、まず1人に不意打ちで肩を撃たれ、ルノーの陰に潜んでいたもう1人に腹を撃たれたのだと思います。銃声は3発でした。最後に運転手を撃って、停めておいたオートバイに乗って逃げたのでしょう」
 紫郎は考え込んだ。ドミニクの推理は理にかなっているが、どうも腑に落ちないところがある。
「おかしいと思わないか、川添君」
 やはり坂本も同じ疑問を抱いていたようだ。
「肩を撃たれた鮫島は、ルノーの陰に隠れようとして、そこでもう1人の敵に撃たれた……。本当にそうなのか? 金田は運転席にいたんだよな。不審な男……、まあ女かもしれんが、不審な人間が自分の車の脇に隠れていたのに、あいつは全く気づかなかったのか?」
「窓は開いていました。銃声が2発もすれば、たとえ居眠りしていても飛び起きるでしょう。しかし、金田さんは運転席から一歩も動かず、そこで撃たれていました」
「謎だらけだな」と坂本はあごを撫でながら言った。
「そのあたりは警察がしっかり捜査してくれるでしょう」
「いや、満鉄としては、痛くもない腹を探られたくはない。オクターヴは警察や軍関係に顔がきくし、私にもルートはある。そのあたりはうまく処理してもらうことにしよう」
 坂本は苦い薬を無理やり飲みこんだような顔をして言った。満鉄は裏でスパイらしき仕事をしている……。紫郎はそんな噂を何度も耳にしていた。捜査の対象になっては困ることが本当にあるのかもしれない。むしろ、そう考えるのが自然だなと彼は思った。
 ルノー・レナステラはヌイの高級住宅街に入った。相当なスピードで走っているのに、タイヤが悲鳴を上げる場面は今のところ一度もない。このドミニクという元軍人の底知れぬ能力に、紫郎は恐ろしさを感じていた。マキシムを超高級店に押し上げたヴォーダブルが重用するのもうなずける。表向きはドアマンだが、実際は店のガードマンなのだ。紫郎は東大寺南大門にある金剛力士像を思い出した。
 アメリカン・ホスピタルの救急入口に到着すると、待ち構えていた6人の救急救命士と看護師が手際よく2人を運び出した。彼らの態度から、やはり金田の命はもう尽きているのだと紫郎は悟った。

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