『LOVE MORE』インタビュー

ザ・プロディジー マキシムが語る、ソロ新作に込めたポジティブなエネルギー「キースの死があったからこそアルバムが仕上がった」

The Prodigy加入とキース・フリントとの出会い

ーーあなたは1967年生まれですが、あなたが9歳とか10歳ぐらいの時にパンクの、ムーヴメントがありましたね。

マキシム:うんうん。でも俺が音楽に興味を持つ直前の動きだったからさ。正直そんなに影響は受けてない。でも13〜14歳ぐらいになると、周りにパンクの友達もいたし、スキンヘッドの連中とも知り合いだった。彼らはだいたい5歳ぐらい上だったのかな。俺が生まれ育ったのはあまり黒人がいない地域でね。俺自身はスカにハマっていたルードボーイだったんだけど、友達にはパンクもスキンヘッドもいた。それは同じ地域の、いわば身内だったけど、ちょっと離れた地域には、人種差別主義者のスキンヘッドも一杯いたんだ。そういう連中とのいざこざに巻き込まれてしまうことだってある。道を歩いていて見知らぬスキンズと出くわして、それがレイシストのスキンズだったらボコボコにされちゃうから気をつけたりしてね。俺はひとつのシーンに属することはなかったから、いろんなところに友達がいた。そういう意味ではラッキーだったと思うよ。「いいスキンヘッド」「いいパンクス」とも一杯知り合いだったからさ(笑)。

ーーいろんな立場の人たちと付き合って、いろんな音楽をフラットに聴いて、とてもニュートラルでリベラルな環境にいたということでしょうか。

マキシム:そうそう。その通り。それは今の自分にも繋がっているよ。環境的にもひとつのスタイルだけにハマるということはなくて、いろんなものに影響を受けた。最初はスカだったけど、そこからレア・グルーヴに行ってブレイクダンスにハマって、ソウル・ファンクに行ってPublic Enemyに夢中になったりしてね。ほんとにいろんなシーンに行ったし、ひとつところに落ち着くこともなかった。だから「マキシムってこうだよね」って、ひとつの箱に収められちゃうのは好きじゃない。俺は何者でもない、自分らしくあるだけ、という。

ーーティーンエイジャーの時は地元のサウンドシステムに所属してMCをやっていたということですが、そこからどういう経緯でThe Prodigyに加入したんでしょうか。

マキシム:確かにサウンドシステムから俺のキャリアは始まったんだけど、その頃から歌詞を書いていて、それがサウンドシステムに合わないと自分でもわかっていたんだ。自分としてはいろんなアイデアを持っていて、より大きなヴィジョンを持っていたので、いろんな人とコラボしていたし、よくノッティンガムに行って、そこである人と一緒に曲作りもしていた。お金をためてロンドンでレコーディングしたこともある。今考えると最悪な曲だったけど(笑)。キース(・フリント)とリロイ(・ソーンヒル)がリアム(・ハウレット)と何か始めようということになって、フロントマンが必要ってことになった。その場に俺の知り合いの知り合いがいて、俺のことを紹介してくれたんだよ。地元のピーターバラでは俺がミュージシャンを目指していてどういうスキルを持っているか知れわたっていたので、俺のことを思いだしてくれたらしいんだ。

ーーキースはその頃どんな人だったんですか。

マキシム:変なヤツだったよ(笑)。最初からメンバー全員とはうまくいったんだけど、なかでもキースとは気が合ったかな。キースが一番歓迎してくれたような感じがしたからさ。一番親しみやすかったんだ。リアムはちょっと向こう側の距離を置いたところにいる感じだった。

ーーキースとの思い出深いエピソードは何かありますか。

マキシム:たくさんありすぎて答えられないよ(笑)。キースは全員を繋げる役割で、さらに自分たちの背中を押してくれるような存在だった。リロイもそうだけど、みんなそれぞれ役割があって、それぞれがみんな他人とは違うところがあった。それがあわさって化学反応が起きて、ユニークなものになっていったんじゃなかな。誰かがひとりだけ突出しているというよりは、みんながそれぞれ自分の役割を自然とわかってたという感じかな。

リアムじゃなかったら参加しなかった

ーーThe Prodigyはいわゆるレイヴカルチャーのさなかから登場したわけですが、あなた自身はレイヴにはハマってたんですか。

マキシム:いや全然(笑)。その時はPublic Enemyにすごくハマってたんだ。ほかにもレゲエやハウス、特にデトロイトのハウスが好きでね。当時のイギリスはキャンプ地みたいなところで週末の2〜3日、ずっと音楽をかけて楽しむようなパーティーが流行っていた。アダムスキーだったりUrban Cookie Collectiveだったり、アメリカやUKからラッパーが参加したり。

 当時のダンスシーンは非常にドラッグが蔓延していたんだ。俺が育った環境では、もちろんハッパはあったけど、ハードなドラッグは一般的じゃなかった。自分の生活にはないものだったから、よく理解できなくてね。音楽もまた、単調な四つ打ちばかりでビート(グルーヴ)が感じられないものばかりでさ。ビートやベースが入ってないものは俺には理解できない。The Prodigyに入ったばかりの頃は、それをよく言っていたよ。だから初期のダンスシーンには自分が好きになれる要素がなかったんだよ。Shades of Rhythmという俺の友達がやっているバンドがいたんだけど、それも全然理解できなかった。

 The Prodigyの場合、リアムはヒップホップのシーンから来たんだけど、彼がやっている音楽は自分の大好きな要素が一杯あったんだ。彼が影響を受けたものが自分とすごく似ていた。Ultramagnetic MC'sとかStetsasonic とかLL・クール・Jとかラキムとか、80年代から90年代にかけてのヒップホップ、という点で俺たちの好みは一致してたと思う。ファンキーなビートとベース、というのが大事だね。当時のダンスとかレイヴにはそういう要素が欠けてたんだけど、リアムはそれをちゃんと持っていて、自分の音楽に活かしていた。だから俺は共感できたんだ。だからThe Prodigyとしてやっていけたけど、リアムじゃなくほかの人とだったらたぶん参加しなかったと思うな。

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