矢野利裕のジャニーズ批評

SMAPは音楽で“社会のしがらみ”を越えるか? ジャニーズが貫徹すべき“芸能の本義”

 芸能の本義は、常人とは異なる身体性を用いて、日常とは異なる空間を演出することだ。僕たちは、だからこそ、歌や踊りや笑いに触れることで、ほんのつかのま、社会のしがらみから解放される。かつて、ブロードウェイ・ミュージカルに魅了され、美空ひばりの舞台に感銘を受けたジャニー喜多川は、そのことをいちばん知っていたのではなかったのか。ジャニーズ事務所は、そういう日常から解放されるようなステージングを、なにより目指していたはずではなかったのか。だったら、ほかならぬ芸能‐人を、ああいうかたちで、社会のしがらみの最前線に立たせてくれるなよ。過剰に囲い込むようなファンクラブのシステムなど、これまで、ジャニーズのすべてに対して好意的だったわけではない。しかし、芸能‐人としての身体を提示し、日常と異なる空間を演出する、という一点については信頼をしていた。というか、その一点において、僕はジャニーズと向き合っていた。しかし、どうだろう。謝罪をしていたときのSMAPの、あの社会に疲れ切っていた顔。あんな表情を続けるくらいなら、芸能‐人としての身体が失われるくらいなら、SMAPである必要もジャニーズ事務所である必要も、まったくない。たとえ解散したとしても、司会としての中居のほうが、俳優としての木村のほうが、その意味では、よほどSMAP的なはずである。

 ジャニーズ事務所は、かりにも自らが育んだ芸能‐人の、その芸能‐性を、派閥だか利害関係だか知らないが、つまらない社会的なしがらみで失わせるべきではない。一連の騒動の舞台裏については知るよしもないが、いずれにしても、芸能人の芸能‐性を失わせるような事態こそ、ジャニー喜多川がもっとも忌むべきことではなかったか。数々の舞台をプロデュースしてきたジャニー喜多川に言いたい。あんな表情で謝罪をするような舞台演芸が、あってたまるか。みんな、日常からの解放どころか、日常のいやなしがらみを思い出してしまったではないか。だから、SMAPは旧態依然とした芸能事務所のシステムに負けた、という論調があるが、違うと思う。ジャニーズ事務所が、本当に当初の志を失っていなかったならば、少なくともあのような謝罪のかたちはなかったはずなのだ。面白がっていた視聴者もいるようだが、実際におこなわれていたのは、ドメスティックで、ハイ・コンテクストで、排他的な、内輪ノリである。あんな最低な舞台演芸は見たことがない。

 もし希望があるとすれば、それでも芸能は社会を越えてくる、ということだ。あらゆる社会的な困難にあるときこそ、歌と踊りと笑いが必要とされる。芸能は最後の最後、社会を越えてくると信じている。それがジャニーズと向き合っていた理由でもあるので、なおさらだ。こんなことがあったからこそ、すでにSMAPの音楽を聴きたくなっている。この欲望自体に、社会に負けない芸能の強みがあらわれている。だから、あんな謝罪では、まったく納得がいかない。だって、自らが歌っていたではないか。

微笑みに分かった顔しないでさ/いつだって気持ち素直に伝えよう/正直にとにかく何でも隠さずに/話をしようよ(「しようよ」)

 社会のしがらみに巻き込まれたSMAPが、「正直」に話ができないことくらい分かっている。しかし、芸能‐人にとっての「正直」さとは、あの、歌って踊る身体に他ならない。だから、社会のしがらみとはまったく別の水準で、芸能‐人としての「正直」さこそを早く見せて欲しい。

■矢野利裕(やの・としひろ)
批評、ライター、DJ、イラスト。共著に、大谷能生・速水健朗・矢野利裕『ジャニ研!』(原書房)、宇佐美毅・千田洋幸『村上春樹と一九九〇年代』(おうふう)などがある。

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