ドラマ版『The Last of Us』が描く、もう一つの「私たちのさいご」
ジョエルにない「視点」を見事に活かしたドラマ版
ここまでは原作であるゲーム版『The Last of Us』の魅力について論じてきた。そして勘のいい方はお気づきかもしれないが、実はこうした原作の魅力は、筆者にとってドラマ化にあたっての大きな不安材料だった。正直に言えば、筆者はドラマ版『The Last of Us』にほとんど期待していなかったのである。
繰り返すように、『The Last of Us』がベースとする「ゾンビ・アポカリプス」というテーマは映画、ドラマで無数の古典的な名作が存在し、手垢まみれのテーマである。その上で本作は、プレイヤーの操作に連動した物語や最新のAIを使った戦闘など、ゲームならではの強みによって、平凡なテーマを真新しく再構築したドラマチックな存在だった。それを改めて映画、ドラマという媒体に「逆輸入」することはいささか無謀ではないか、そのような不安があったのだ。
では一体どのようにして、ドラマ版『The Last of Us』は成功を収めたのか、そこで注目したいのが「視点」である。
まずゲーム版『The Last of Us』は徹頭徹尾、主人公ジョエルの目線で物語を追いかけることになる。時折、サラやエリーの視点に変わることもあるものの、プレイ時間のうち9割はジョエルの目線・立場でゲームを遊ぶ。このゲームは「TPS・三人称視点のシューティングゲーム」であり、虚構世界を映す「カメラ」は常にジョエルの背後に固定されている。これはゲームである以上の必然だが、本作はむしろこの性質を活かし、ジョエルの極度に個人的な、独善的と言ってもいい物語がカタルシスになっていた。
具体的には、冒頭を除く作中に登場するほとんどの登場人物が、ジョエルにとっての味方か敵か(利益をもたらすか、損害をもたらすか)に二分されていたり、舞台のほとんどが感染者や暴徒に満ちた危険極まりない場所という点だ。冷静に考えれば、ジョエルと全く接点をもたない他者や、危険が全くない土地もあるはずなのに、作中ではそういった要素のほとんどが省略、ないしカットシーンで要約される。
同時に、だからこそプレイヤーはジョエルが抱く「世界への失望」や、「エリーへの愛情(保護欲とも言い換えられる)」を、彼の背後に固定されたカメラを通じて強く共感する。そして、そのクライマックスとして、ゲーム史上稀に見る、独善の極致とも言えるエンディングを迎えるのである。
一方、ドラマ版『The Last of Us』はドラマならではの手法を用いることで極めて効果的に、このカメラとそこに準じた独善的カタルシスをアレンジしている。
例えば第一話の冒頭では、原作と同様にジョエル一家の目線で、パンデミックにより社会が崩壊する様を追体験することになる。しかし、「20年後」というテロップが表示されると、ジョエルではなくぼろぼろの少女の目線へと変わる。彼女は20年もの間で廃墟化したアメリカ東部をさまよった末に、「FEDRA(連邦災害対応庁、パンデミック後の米軍)」という組織により保護される。そこで少女は「我慢できたら、ごはんもおもちゃも好きなだけあげる」と言われ、彼らに致死毒の注射を撃たれる。その後、彼女の遺体が運ばれたのであろう死体焼却施設で働くジョエルへ、また視点が戻る。
この10分にも満たないシーンにより、ほとんど廃墟になってしまったアメリカの未来、そして恐らく親とは死別したのであろう少女の悲しい姿、そんな少女を哀れみながらも殺すことしかできないFEDRAの無力さ、そして何より、そんな悲劇がごく当たり前のように存在する現実。つまりジョエルとサラを襲った悲劇は何一つ珍しいことではないことが、このシーンではっきりと描かれ、また少女の遺体を何も言わずに運ぶジョエルも、その事実を受け入れているように思えるのだ。
原作ゲームでは、冒頭でドラマチックに娘を喪失するジョエルの悲劇を強調することで、他者を拒絶するメンタリティや、戦闘での凶暴さのような、彼の独善性を裏付ける根拠になっていた。また、FEDRAの兵士たちも基本的に無情な敵として描かれており、彼らを倒すことへの躊躇もあまりなかった。
一方でドラマ版は、客観的な視点から「少女の死」を普遍的なものとして描いた。そしてジョエルが現実をある程度受け入れており、FEDRAもまたジョエルと同じ人間であるように描かれることで、原作で受ける印象も大きく変わった。
他にも、ドラマ版ではパンデミック発生前に科学者たちがパンデミックに抗おうとする(そして失敗する)、時系列的にいえば「過去の視点」も取り入れているのが興味深い。
1話の冒頭では、1968年のテレビ番組で疫学者がウィルスと菌の違いを明らかにし「菌へのワクチンは不可能に近い」と語るシーンが、また2話の冒頭では、2003年のインドネシアで菌類学者が人類に寄生する冬虫夏草を発見し、もはや人類の手に負えないことを悟るシーンが、それぞれ挿入される。
これは単に世界観の説明のみならず、『The Last of Us』という物語が一般的な「ゾンビ・アポカリプス」と異なり、アポカリプスにはっきりとした加害者・原因が存在しないこと、言い換えれば、誰かを倒したり、ワクチンを発見することで「解決」することは不可能で、文字通り「私たちのさいご」をどう受け入れ、生きていくのかを描く物語であることを、ゲームでは持ち込めなかった視点を使ってうまく説明できている。
もう一つの「さいご」を描いたエピソード、「長い間」
ここまで論じてきたドラマ版ならではの「視点」の変化は、ゲーム版の物語を見事に補完できている。しかし第3話「長い間」に至ると、もはやアレンジや補完ではなく、全く別の物語を、それも最高の形で描いていたことには、原作ファンとして言葉にできない感動があった。
「長い間」は移動用の車を求め、ジョエルの旧友「ビル」に会いに行くという物語である。しかし、第3話の開始から5分もすると、ジョエルからパンデミック直後のビルへと視点が移り、最後までそれが続く。つまり「長い間」における主人公は、ジョエルでなくビルなのだ。
ビルは典型的な「プレッパー(世界の滅亡に備え、シェルターに武器や食糧を確保する人々)」だ。軍による避難命令に従うことなく、ただ一人廃墟となった街を落とし穴などで要塞化し、確保していた設備や道具を使って文明崩壊後でも優雅な生活を送っていた。その中で、偶然訪れた生存者のフランクを助けたことで、2人の共同生活が始まる。2人は時折衝突することもあったが、それでも互いを愛し合い、ささやかな日常を謳歌した。しかし、フランクは原因不明の病に侵され、まともな医療や医薬品も得られない中、ビルはある決断をする。
この「長い間」のエピソードは実質的に一話完結の物語でありながら、本当に美しいものだった。冒頭こそビルが「レッドネック的な人物」であり、その思考と戦略で生き延びてきたことが描かれる。しかしその後には、それはビルという人間のごく一面でしかなかったこと、そしてビルのもう一つの一面を見つけ、愛したフランクが芸術や友情について語り、それによってビルもまた生きる意味を見つけることへと続く。それは皮肉にも、世界が崩壊しなければ「得られなかった愛」であり、だからこそ本作が描く「私たちのさいご」の普遍性を、ジョエルとエリーとは違う2人の関係性から創造できている。タイトルにもなったリンダ・ロンシュタットの「Long Long Time」の演出も、実にすばらしかった。
原作ゲームにおいて、ビルはあくまで悪態をつきながらジョエルたちを手助けするキャラクターであり、(それも十分印象的だが)ジョエルたちが先に進むためのマクガフィン的な立ち位置、ゲームを進行させるための誘導役だったことは否定できない。彼のセクシャリティも、あくまで彼の哀れさを強調するだけで、それ自体、特別印象的ではなかった。そんな彼を主人公にし、結末を変えてまで彼の人間らしさや「私たちのさいご」のもう一つの解にしたエピソードは、まさに原作ゲームの映像化でなければできない表現だったと思う。