“叩かれる側”が意思表示する意義 宮迫博之とヒカルの動画から考える

友達のヒカルくんとFLASHに凸ったら討論になりました

 たとえば、昨年4月1日に公開した動画では、一部メディアでコロナ禍による買い占め騒動が起こる最中、“セレブ米”を大量買いしたと報じられたことに憤慨し、当該メディア編集部に抗議の電話をしている。編集担当者との議論は平行線をたどったものの、コメント欄は宮迫を支持する声が大半を占めた。

無断で「闇営業Tシャツ」が売られていたので、訴えられるか弁護士に相談しました

 また、今年6月12日には、自身の似顔絵とともに、「YouTuber」「YAMIEIGYOU」などと書かれたTシャツを無許可で販売している業者へ連絡。業者側が全面的に非を認めて謝罪に徹したことで、宮迫が「デザイン的にも気に入っていますので、バンバン売ってください」と寛容な態度を示したものの、業者側は販売を取りやめていた。これらの告発が、少なからず宮迫の名誉回復につながっているのは間違いないだろう。

 とはいえ、メディアから一度“石”を投げられてしまえば、どんなに本人がYouTubeで潔白を訴えても、その声は届かず、記事を事実として鵜呑みにしたままの人は確実に一定数いる。そして、メディアのミスリードに影響された人たちが宮迫へ石を投げてしまいかねない。

 この度の「ヒカル激怒事件」報道を受け、宮迫は「血出えへん思われてんねやろな、石投げても。心に石当たってるから。血は出てるけど見せないようにしてるだけ」とも話していた。大元の情報を提供するメディア側も、その情報を受け取って批判的な発信をするユーザーも今一度、渦中の芸能人だって生身の人間であるという事実を認識する必要があるだろう。

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