『プロジェクトセカイ』『はめふら』『どうにかなる日々』を接続して考える、“性別の組み合わせに囚われず、関係性の多様さを楽しむ作品”への期待

“性別そのもの”へのこだわりよりも、個々のあり方を見つめていける時代へ

 こうした、女性同士、男性同士、あるいは男女といった性別が固定された関係性に囚われない、ひとつの作品で様々な性別間の関係性を描く作品群が2020年にいくつも目立ったというのは、消費者の中で「自分がいちばん楽しめるのはこの性別同士の関係性だ」といった意識が薄れつつあるということではないか、と思う。

 男性が百合を、女性がBLを嗜好するのは、自分の性別自体や、それによって否応なしに付与される属性からの逃避や解放を求めている面が少なからずあるように思う(少なくとも自分は百合作品に触れるとき多少なりそういった意識がある)。逆に自分と同じ性別同士の関係性が描かれている作品ならば、異質な属性への拒否感などから嗜好している面もあるのではないだろうか。

 しかし、それらは実際のところ“性別そのもの”の問題ではなく、そこに属する個々の人間や、属するコミュニティで再生産され続ける意識の問題である、というのは、昨今の先進的な作品では描かれることが増えている事象だろう。ならば“男性だから”、“女性だから”と性別を理由に作品世界からキャラクターを取り除く必要性は少なくなってくるし、むしろ魅力を感じられる関係性であるならば、それが男性同士だろうと、女性同士だろうと、男女であろうと、消費者の性別もまた関係なく、楽しめるはず。それに、むしろ描かれている関係性が多様であるほど、その中に存在するいわゆる“推しカップリング”が放つ輝きも、ひときわ眩く見えることもあるのだと思う。

 もちろん今後も百合特化、BL特化の作品も生まれ続けるはずだし、そこにしかない魅力だってある。そういった作品だけが帯びる価値は決して古びたりはしないだろう。ただ、それらの作品の決まりごとに囚われない関係性を描く作品も増えていく傾向にあるのなら、様々な選択肢があるのは我々にとって喜ばしいことだ。

 生まれ持った性別によって世間から受ける影響は大小様々だが、フィクションの中で描かれるキャラクターの関係性は、時として日々の生活でそういったものから受ける苦しさから、軽やかに解き放ってくれる。その中で“性別そのもの”をあまり意識せず“個々のキャラクターのあり方”によって救われたと感じることが増えていくならば、それは良いことのように思う。

 今後、また新たな“性別の組み合わせに囚われず、関係性の多様さを楽しむ作品”が登場し、この潮流を途絶えることなくつくってくれることを期待したい。

■小林白菜
ゲームやアニメーション、漫画などを中心に、作品の魅力について紹介する記事を複数のメディアに寄稿。アニメーションでは『プリキュア』シリーズや『アイカツ!』シリーズなど、女児向けの作品を特に好んでいる。
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