『まんぷく』や『忘却のサチコ』など、今ドラマで人気の「いっぱい食べる女の子」をYouTuberに見つけてみる
食欲の秋に『まんぷく』と『忘却のサチコ』というふたつの“食”ドラマが放送を開始し、そこに登場するおいしそうにいっぱいごはんを食べる女の子が注目を浴びている。そこでふと考える。漫画やドラマ、映画、小説などの「物語」における“食べる”という描写になぜ私たちの心は動かされるのか。本稿では“食”と“ポップカルチャー”の相関関係を考察しつつ、YouTubeという新生かつノンフィクションなカルチャーに「いっぱい食べる女の子」を見つけてみたい。
「食べること」は「生きること」
『まんぷく』第19話、戦時下で満足のいく食料が得られないなか福子(安藤サクラ)は、「人にとって何より大事なのは、食べることでしょ」と言葉を発しながら、その少ない食料でも工夫しておいしいごはんを作ろうとする。そこには、生きるためにおいしいごはんを食べよう、という福子の強い意志がうかがえる。また『忘却のサチコ』において、結婚式で新郎に逃げられたサチコ(高畑充希)の、その理不尽な現実を「忘却する」ためにおいしいごはんを求めるという行為。その行動が逃避ではなくポジティブなイメージを伴って見えるのは、それは食べることが生きることに直接つながる行為だからなのだろう。
生きるために食べる、または食べるために生きる。どちらでも構わないのだけど、彼女たちが厳しい現実と対面しつつ、それでもその先で「おいしいごはん」へとたどり着く姿に私たちは心を掴まれて、その下のほうでおなかがぐぅ〜っとうなる。どんなに苦しくても、おいしいごはんを食べていれば生きていける。それは食の天国・日本において、数多のポップカルチャーが描いてきたテーマであり、この世界へ向けた祈りのようなものだ。
「食べること」が受容するもの
『まんぷく』の安藤サクラと『忘却のサチコ』の高畑充希。奇しくも食のドラマに女性がふたり連なったわけであるが、今回、YouTuberに「いっぱい食べる女の子」を見つけてみるという試みの中でその前にひとつ論じておきたいのは、食×エンターテインメントがこの社会を映し鏡として反映してきたことだ。特に挙げられるのは「ジェンダーバイアスの排除」と「ひとり飯の楽しさ」を受容してきたこと。
まずジェンダーで言うと、『美味しんぼ』から始まり、『クッキングパパ』、『孤独のグルメ』と続いた男性主人公の初期グルメ漫画ブームの系譜が、近年では『花のズボラ飯』、『ワカコ酒』、『山と食欲と私』など女性主人公の物語の増加など広がりを見せていること。また、テレビドラマにおいてかつて頻発した「女性がたくさん食べる=失恋」だけに絞られていた描写(『忘却のサチコ』はそういう物語なのだけど)。それが、例えば仕事終わりに一杯飲んで帰る『獣になれない私たち』の深海晶(新垣結衣)の姿や、ドラマ『カルテット』の巻真紀(松たか子)による「泣きながらご飯食べたことある人は、生きていけます」というセリフとそのシークエンスなど、「女性が食べる」という描写がもう少し多様性を帯びて一般化していったことが挙げられる。
グルメカルチャーは「ひとり飯の楽しさ」もうまく表象している。「ぼっち飯」という否定的なワードの誕生とは対極的に、である。上に挙げた漫画群もほとんどが「ひとり飯」を描いている作品だ。これには、「食べること(あるいは料理を作ること)」がインスタ映えなどのトレンドとともに、「小説を読むこと」や「音楽を聴くこと」と同じ類のものとして趣味化していったという側面もあるだろう。人と食べるご飯も楽しいし、ひとりで食べるご飯も楽しい。そこには優劣などなく、食と生への多大なる肯定のみが存在している。
ただ、そのように社会や文化が変わってきているとはいっても、「(ひとりで)人の目を気にせずにいっぱいごはんを食べる」という行為はそう簡単に実行できるものではないかもしれない。だからこそ、YouTuberというリアルな存在に自分の姿を投影してみようではないか。前置きが長くなったが、本記事はそういう試みである。