加藤よしきの“ゲームのいけにえ”
皿洗いが没入感を高める? 『Detroit: Become Human』が示す、ゲームとシナリオの理想系
2038年のデトロイト。人間型ロボット=アンドロイドの爆発的普及により、人々の生活は一変した。アンドロイドは人質交渉人から老人介護まで、社会を支える仕事に従事していた。そんな中、本来は意志も感情も持つはずがないアンドロイドが、持ち主を殺した挙句、その娘を人質にとる籠城事件が発生。この事件を機に、立場の全く異なる3体のアンドロイドが波乱の物語に巻き込まれていく……。
ロボットは感情を持ち得るか? もしもロボットが感情を持ったなら、それはもはや人間と同じなのではないか? こうしたテーマを掲げた物語は、SFの定番中の定番だ。良く言えば王道であり、悪く言えば使い古されたもの。言わずと知れた『ブレードランナー』(82年)や、ウィル・スミスの『アイ,ロボット』(04年)など、数え出すと切りがない。今回ご紹介する『Detroit: Become Human』(18年)も、こういった過去作を想起させる物語だ。しかし、これは映画でもテレビドラマでもなく、ゲームである。その事実が本作を新鮮なものにしている。
本作の最大の魅力は、その圧倒的な没入感だ。プレイヤーは3体のアンドロイドを交互に操作していき、3人の人生が1つになる一本の群像劇を楽しむことになる。本作は基本的に選択肢を選んで進行するアドベンチャーゲームであり、ノベルゲームにも近い。しかし、3Dのキャラクターを操作するため、その手触りはノベルゲームよりもアクション・ゲームに近いが、それでいてアクション・ゲームとも異なる。確かにアクションは求められるが、非常に細かく地味な操作なのだ。たとえばゲーム序盤では「皿を洗う」「バスに乗る」と言った、あまり他のゲームでは見かけないアクションを求められる。だが、こういった日常的な、我々が日々の生活で実際に行っている動作を繰り返し行うことが重要なのだ。
ゲームをプレイしているとき、どう見ても飛び越えられる高さの壁が飛び越えられなかったりする。こうした没入感を阻害する要素を、あえて普通のゲームではしない「日常」にプレイヤーのアクションを置くことで、少しずつ、しかし確実に没入感を高めていくことで解決しているのだ。我々の殆どは空中で100連コンボを決める感覚は分からないが、汚れた皿をスポンジで洗う感覚は知っている。その部分を突いた、まさしくコロンブスの卵的な発想だ(本作の制作会社クアンティック・ドリームのお家芸でもある)。物語を楽しみながら、次第にキャラクターと自分が合致していく。このゲーム・システムは、ゲームとシナリオの一つの理想系であるようにも思う。
ゲームとシナリオ。これは非常に難しい関係にある。ゲームにシナリオを乗せることで、上手くいけば相乗効果が起きる。しかし失敗すれば盛り下がるどころか、ゲーム全体の印象まで悪くしてしまう。今まで何本の「ゲームとしては面白いけど、シナリオがダメ」というゲームがあっただろうか? そもそもゲームとはゲーム単体で完結しているエンタテイメントだ。シナリオは往々にして出来上がっているゲーム・システムに被せるものに過ぎない。極端な例を出すが、将棋を想像してみてほしい。例えば「香車」は真っすぐにしか進めない。その理由はルールの一言で説明され、特に物語は存在しない。これがゲーム単体で完結するということだ。
ゲームのシナリオ作成は、ここに「理由」と「ドラマ」を付与する作業である。「香車」の例で言うなら、たとえば「香車には仲間を見捨てた経験があり、その過去への反動から敵陣へガムシャラに突っ込む性格になった」と言った設定を付与する。こうして設定やストーリーを考えていくのが、ゲーム性に根差したシナリオを書くということだ。しかし、こうした物語性を強くすればするほど、本来のゲームとしての面白さを担保するルールとの矛盾も出始める。将棋の喩えを続けよう。仮に「金」と「銀」が仲の良い兄弟だとする。しかし、プレイヤーは「金」を守るために、「銀」を犠牲にしたいと考える。その際に、この兄弟という設定はどう働くだろうか? 兄弟である「金」が「銀」を見捨てるのは不自然に見えないか? プレイヤーによっては悲劇に涙するかもしれない。あるいは弟を見捨てた「金」に不快感を覚えるかもしれない。また、そもそもプレイヤーが「金」を守るために「銀」を見捨てるというシチュエーションが起きるだろうか? 逆に「銀」を見捨てるために「金」を見捨てたら? もしくは他の駒にやられたら? 将棋というゲームのルール上、「金」と「銀」の別れのパターンは無数に考えられる。そのすべてに合致し、なおかつプレイヤーを満足させる物語を用意するのは恐ろしく難しい。