『Ave Mujica』奇跡を劇場に “史上最狂のバンドアニメ”はどこにたどり着いたのか
原作なきメディアミックス
以上のようにアクロバティックなキャラクター/キャスト/オーディエンス/資本……同士の関係を見出す視座は、アニメーションを確固たる「映像作品」として自明視する立場からすれば特殊なことである。映像作品の内部にあるとされる物語や視聴覚表現を分析対象とするのが常識的だからだ。
しかし『BanG Dream!』がメディアミックスプロジェクトである以上(アニメーションがそもそもメディア越境的見世物でもあった以上)、アニメーション=映像作品という自明性を一度忘却し、オーディエンスがあらゆるメディアを通していったい何を目撃しているのか、そもそもオーディエンスがどのように定義されるのかというゼロ地点から前提を問い直さなければならない。
『BanG Dream!』において特徴的なのは、確固たる「原作」が存在せず、アニメーションやゲーム、音楽ライブで提示された物語がパラレルに進行していく点だ。それらは互いに補足し合いながら(時に矛盾を孕みながら)、それぞれが『BanG Dream!』という一つの世界観を構築していく。メディアとメディアの間に「特定の原作とその再現」という対応関係が成立しないため、プロジェクト内で展開された各メディアはそれぞれが並立された等価のものとしてある。
一般的に想像されるであろう「原作としてのフィクション」があり、キャストのリアルライブがその「現実での再現」という対応関係ではなく、キャストの身体すらも他のメディアと「等しく重要」な表現として世界観の断片が紡がれていく。
したがって個々のメディア(アニメーション、ゲーム、楽曲といった)は、確固たるパッケージングがなされたものというより、その境界線が常に揺らぎつつ互いに関連しながら一つの世界観を構築する動的な過程としてある。Ave Mujicaになぞらえていうならば、各メディアとその表現物、キャストの身体、我々ユーザーはそれぞれが「歯車」であり、設計図なき機械を絶え間なく構成していき、その機械がまた新たな歯車となる終わりなきプロセスを生きるのだ(※8)。
私がここまでライブ会場に設置された紗幕や、エンドクレジットの記載方法、プロモーション時期の調整、外部の動画番組での肩書きなど「枝葉」の情報について執拗に語ってきたのはこのためである。プロジェクト内で発信されたメディウムは「すべて」等しく重要な情報であり、雄弁に何かを表象する行為主体である。そして暴力的なまでに相対化され尽くしたこれらの表象は、なんらかの必然的な文脈のもとで再接続される。
具体的にイメージ例をあげるとすれば、言語記号においてこのようなことを実践しているヒップホップのリリックだ。ヒップホップのリリックは、言語の日常的用法を破壊し、韻や聴覚記号としての側面から新たな文脈を紡ぎ出す。そして、Ave Mujicaの楽曲はまさにヒップホップの語彙によって紡がれている。ほぼ全楽曲の作詞・サウンドプロデュースを手がけるのはあのDiggy-MO'である。
複雑性のメディアミックス
荒 荒 荒波立つ ここはUrbanite ウェカピポ!
若 若さの中 不確かな迷いとか ウェカピポ! O-OH!
逆 逆 逆さまWorldの孤独に強く ウェカピポ!
まだ まだ 闘わねば 真実はどこだ
(SOUL'd OUT「ウェカピポ」)
Diggy-MO'がリードボーカルを務めていたヒップホップグループSOUL'd OUTの代表曲「ウェカピポ」では、母音[ア]で韻を踏むリリックの繰り返しが特徴的だ。加えて、「荒 荒 荒波立つ」の「荒」のリフレインは、それ自体が「何度も押し寄せる」荒波を視覚的に表出しているようでもあるし、拡大解釈をすれば「あ〜らあ〜らあら」と発音するDiggy-MO'の独特な発音が波の揺らぎを表出しているかのようでもある。
ちなみにDiggy-MO'が作詞を手掛けたAve Mujica楽曲「Symbol III : ▽」のサビでも「寄せる 寄せる 寄せる波 私の性の中で」とあり、「寄せる」のリフレイン自体が波の表出であるかのように受け取れる(ただし、バラード楽曲である「Symbol III : ▽」から受ける印象は「ウェカピポ」とは正反対である)。
また、「ウェカピポ」で「逆 逆 逆さま」と何度も繰り返される「逆(+さま)」は、「本来の逆」がどちらだったかさえわからなくなるような平衡感覚の喪失・前後不覚(上下不覚というべきか)状態を表出しているかのようだ。「sakasakasakasama」と発音されるこのリリックが、聴覚的にはどこで文節が区切られるのか判断しにくいこともその感覚に寄与するかもしれない。
これらは「荒い」「逆さま」といった言葉の日常的用法を打ち砕く詩的言語である。詩的言語はその言葉が辞書に登録されている意味、いわば社会的振る舞いの束縛から記号を解放する。記号がまとっている社会的振る舞い=ペルソナ=「仮面」を暴き、裸の記号が持ち得たかもしれない無限の表象としてそれらを曝け出す。
こうした記号の詩的拡張が特に強くみられるAve Mujica楽曲といえば「顔」である。「遊び心重視です」とDiggy-MO'自身が語るように(※9)言語的な意味性は極端に薄れ、母音と子音の即物的な聴覚記号としての側面が前面化したリリックが続く。しかしそれゆえに「裸の記号」としての潜勢力は増している。
the pretender up, up, up, up, shake, shake, shake it up, it up[あらら]
バカね さよなら loser, loser, loser
↑
え?[あらら]え?[あらら]え? え?
まあ まあ まあ
とかなんとか言っちゃってさ 空虚な自己防衛さ
歌詞の中に発音しない矢印が現れるのは極めて独特である。これはチャットコミュニケーションで時折用いられる、いわゆるセルフツッコミの視覚的表出のようなものとしてみなせるだろう。「顔」の英題が「Alter Ego(別人格/もう一人の自分)」であるとおり、「pretender(〜のふりをする人)」という単語が頻出したり、「鏡の中のおまえを暴く」といった自己言及的なリリックも登場する。
このような言語記号の前衛的使用を、あくまでもアニソンとして成立させるべく作中の(ゴシックな)語彙にのっとってこなしているところにもメディアミックスとしてのおもしろさがあるのだが、リリックの意味論的読解とDiggy-MO'のコンセプトについてはすでに詳細な論考「天球と韻律の星図を描くAve Mujica ─Diggy-MO'の介在性、或いは『PTOLEMY』『GOD SONG』『DIVINE』からみる「天球」のMujica」(※10)があるためここでは割愛する。
私が論じてきたことには当然多分に連想が含まれているが、ヒップホップにおける韻の踏み方に巧拙があるように、連想の根拠には記号の物理的制約が生じるのだし、連想の適切さ度合いは状況によって異なるのだから、連想そのものが駄目ということはない。むしろロゴスによる因果関係の自明性を忘却し、あらゆる結びつきの場面(それは遍在している)に眼を向ける契機として詩の意義はある。
そのような思考的迂回を経てようやく「メディアミックス」を目撃するための視座を設定できる。パッケージングされた作品からなんらかのメッセージが線状的に伝達されるというマスメディア型の発想ではなく、あらゆる事物・出来事・身体が同時多発的に並立しており、それらが絡まり合い/分離し合いながらも、各々の物理的制約からなんらかの必然性をまとって結びつく、ポストメディアのイメージである。そしてそれらがどのように並立されているのかということ自体の記述を試みることで、「作品」とされてきたものが周囲にどのような影響を与えているかを捉えることができるだろう。
あまりにも取り止めもなく、際限がなく、つかみどころがない認識モデルかもしれない。しかしこのような、複雑系から一筋の必然性へと至る道筋について、Ave Mujicaはすでに要約し終わっている。
複雑性の一面を 人は運命と呼ぶ(Ave Mujica「Ether」)
参照
※1. 細馬宏通『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか』(新潮選書、2013、p.75-88)
※2. https://0115765.com/archives/205140/2
※3. https://realsound.jp/movie/2025/03/post-1971636.html
※4. 森卓也『アニメーション入門』(美術出版社、1966、p.111)
※5. 細馬前掲書、p.168-171
※5. 川村覚文「声優—キャラ・ライブという例外状態 その条件としてのオーディエンスの情動と主体」(『ユリイカ2016年9月臨時増刊号 総特集=アイドルアニメ』青土社、2016、所収)
※6. https://realsound.jp/movie/2025/02/post-1918490.html
※7. 吉田雅史「なる身体になる——メシュガーMV論——」(『エクリヲ vol.11』2019、所収)
※8. トーマス・ラマール(著)、藤木秀朗監(訳)『アニメ・マシーン』(名古屋大学出版会、2013)
※9. 「サウンドプロデューサー Diggy-MO'による楽曲解説」(Ave Mujica 1st Album『Completeness』所収)
※10. https://sai96i.hateblo.jp/entry/2025/11/30/010544#Ave-MujicaDiggy-MO-%E7%AF%87%E9%BB%92%E3%81%AE%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%87%E3%82%A4-%E5%A4%A9%E7%90%83%E3%81%9D%E3%82%89%E3%81%AE-M%C3%BAsica
参考
市倉宏祐『現代フランス思想への誘い アンチ・オイディプスのかなたに』(岩波書店、1986)
伊藤守(編)『ポストメディア・セオリーズ メディア研究の新展開』(ミネルヴァ書房、2021)
S.I.ハヤカワ(著)、大久保忠利(訳)『思考と行動における言語』(岩波書店、1985)
ブルーノ・ラトゥール(著)、伊藤嘉高(訳)『社会的なものを組み直す アクターネットワーク理論入門』(法政大学出版局、2019)
米盛裕二『パースの記号学』(勁草書房、2026)