アン・ハサウェイはなぜ“第2の黄金期”を迎えたのか? “嫌われセレブ”から不気味な存在へ

ノーラン作品との相性
こうして彼女への評価の変遷を眺めて気付かされるのは、彼女自身はキャリアを通じてほとんど変わっていないということだ。もちろん『オーシャンズ8』における狡猾さの演技などは彼女が新たに獲得したものだろうが、『プラダを着た悪魔』の時点で“自立した強い女性”というイメージは既に彼女のものだったし、2012年には現実世界でもテレビ司会者のセクハラに毅然と対応して話題を呼んだ。変わったのは社会やメディアが彼女に担わせる役割であって、近年の活躍を“強い女性”という漠然としたイメージに回収してしまうと、彼女の女優としての特異性や細かな変化を見逃してしまうのではないか。
だから、社会が規定するハサウェイではなく、スクリーン上の彼女についてもう少し考えたい。彼女の演技の最大の特徴は、その忙しなく動く表情だ。顔が小さく目鼻立ちがくっきりしていて、感情に応じて表情がコロコロ変わる。カートゥーンを思わせるその表情の豊かさは、彼女にディズニー・プリンセス的なイメージが付き纏った理由であると同時に、「女優くさい(actress-y)」という侮蔑を招いた原因でもあっただろう。それゆえ、誇張した演技で笑いを誘うコメディエンヌ的な役、児童文学やファンタジーの現実離れした役はもともとハマりやすい。20年ぶりの続編『プラダを着た悪魔2』は、時代に抗えなくなったメリル・ストリープ演じるミランダに主軸が置かれ、アンディ=ハサウェイの存在感は後景に退いているものの、エミリー・ブラントやスタンリー・トゥッチとの軽快な掛け合いでは、その特質が相変わらず遺憾なく発揮されている。
だがむしろ、そうした役以外を彼女がどう演じ、作り手が何を彼女に期待しているかを考える方が、近年の活躍を追う上では有用だろう。クリストファー・ノーランは『ダークナイト ライジング』(2012年)と『インターステラー』(2014年)で彼女を重要な役に起用して苦しい時期を支え、最新作『オデュッセイア』でも、マット・デイモン演じるオデュッセウスの帰郷を待ち続ける妻ペネロペの役を任せている。

なぜノーランは彼女を起用しつづけるのか。その映画作りの傾向から考えてみよう。前提として、ノーランが『ダークナイト』以降使用しているIMAXカメラは、俳優の演技を引き出すのに適していない。うるさすぎる騒音で俳優は劇中世界に没入しにくく、不自然なほど声を張り上げる必要がある。加えてノーランは、キャラクターの感情が直線的に物語を牽引するオーソドックスな作劇をしない。複数のプロットが併走し、衝突する彼の作品では、各プロットにキャラクターが割り振られる。『オデュッセイア』でも、トム・ホランドとマット・デイモンをそれぞれ軸とする2つのパートが用意され、マット・デイモンにはシャリーズ・セロン、ゼンデイヤ、エリオット・ペイジそしてアン・ハサウェイといった複数のキャラクターからの引力が働いている。プロットの煩雑さに比して各人物の役割は明快なため、俳優に求められるのは複雑な感情表現よりも、担わされた役割を観客にダイレクトに伝える能力だ。ゆえにノーランは良くも悪くも大味な演技を求める傾向が強い。ハサウェイの情感豊かな表情は、IMAXカメラが抱える技術的瑕疵をクリアする上でも、複雑なプロット構造を端的に処理する上でも役立っており、それこそがノーランが彼女を起用しつづける所以であるように思う。
過剰さと不気味さを纏うハサウェイ
今年の出演作で彼女の特性をかなり特異なかたちで活かしたのは『オークストリートの異変』だ。一家の暮らす郊外の一角がある日突然恐竜時代にワープするという単純明快な設定に反して、この作品は一筋縄ではいかない。恐竜から逃げ惑うアクションが基本軸だが、注目したいのは、ハサウェイ演じる母が家族に黙って小説を書いているというサイドストーリーだ。失業中の夫(ユアン・マクレガー)の意気地なさに苛立つ彼女だが、緊急事態下で協力するうち、2人のあいだには再び愛情が芽生えはじめる。普通ならこの不和の解消がハッピーエンドに繋がるだろうが、あろうことか夫は途中で恐竜に食い殺される。さらに驚かされるのは結末だ。恐竜時代に飛ばされる直前のパラレルワールドに舞い戻った彼女は、その世界の夫と再会し、映画はあまりにご都合主義なハッピーエンドを迎える。このラストを往年のハリウッド映画の荒唐無稽さへのオマージュと見ることも、単なるプロットの瑕疵として糾弾することもできるだろう。

だがここでは、この歪な構成が生み出すハサウェイの不気味さに目を向けたい。うだつのあがらない夫との日常に嫌気がさした彼女が地下室でひっそり書いている小説は、どうやら家族をおいて家を出ていく女性の物語らしい。そして映画は、彼女が自らの経験をもとに小説を書く場面で幕を閉じる。ハッピーエンドを装ってはいるものの、その仄暗い欲望に目を向けると、彼女が夫をコピーと取り替え、小説に書いた理想を実現した物語にも見えてくる。もちろん夫が食い殺されるとき、彼女は端正な表情を崩壊させて慟哭する。だがその取り乱しっぷりを目撃しているがゆえに、苦難をともにしたわけでもない夫(のコピー)を無邪気に迎える妻の不気味さが際立っているのだ。
彼女が実はサイコパスなのではないか、という突飛な解釈を示したいわけではない。素直に受けとれば、この映画のハサウェイはショットガン片手に恐竜と戦う“強い母”であり“賢い妻”で、従来の彼女のイメージを継承している。だが他方で、その表情の作り方はどこか過剰なのだ。そう、彼女はちょっと「嘘くさい」。この映画はその過剰さを利用して、表面的なハッピーエンドの裏に不気味な解釈の余地をあえて残すのである。
ジェシカ・チャステインとの共演が話題を呼んだ『隣人たち』(2024年)も、ここまでの捻りはないが、彼女の表情の過剰さとそれに付きまとう嘘っぽさを意図的に利用していた。11月に日本公開予定の『ヴェリティ/真実』、日本公開がまだ決まっていない『Mother Mary(原題)』でも、予告を見るかぎり、彼女は単なる強い女性には留まらない過剰さや不気味さを纏っている。
映画、ファッション、社会活動のすべてにおいてこれほどコンスタントに活動し、大衆性を獲得しているスターを他に挙げるのは難しい。しかし、スターという存在は輝けば輝くほど、そのイメージを外部から規定される。 “優等生”、“強い女性”……社会が押しつけるそうしたイメージから逸脱する術を、どうやらアン・ハサウェイは見つけはじめているようだ。
参照
※1. https://www.thecut.com/2013/02/why-do-women-hate-hathaway-but-love-lawrence.html
※2. https://www.vulture.com/2017/04/anne-hathaway-its-not-cool-to-hate-her-anymore.html
※3. https://extratv.com/2026/05/01/the-year-of-anne-hathaway-is-in-full-swing-with-the-devil-wears-prada-2/
※4. https://faroutmagazine.co.uk/2026-is-the-year-of-anne-hathaway/






















