第98回アカデミー賞は盛り上がりに欠けた? “賞”と“ショウ”の価値を見直すタイミングに

PTAの受賞に見え隠れする「功労賞」的側面と社会への危惧

ポール・トーマス・アンダーソン(写真=REX/アフロ)

 今年の結果を象徴する最大のトピックといえば、ポール・トーマス・アンダーソン(PTA)が一晩で3つのオスカーを獲得した点だ。いわば、映画界でかなりの地位と影響力を築きながらも、なぜかオスカーと縁がなかった作家を讃える場としての役割が果たされた。これは第79回の『ディパーテッド』におけるマーティン・スコセッシや、第96回の『オッペンハイマー』におけるクリストファー・ノーランに対するそれとよく似ていて、申し分のない完成度の作品である反面、その作家を讃える上で本当にその作品で合っているのかという疑問がつきまとう共通点がある。

 2025年度は『ANORA アノーラ』のショーン・ベイカーが複数部門を獲得したが、ここには対抗馬の『ブルータリスト』も含め、メジャースタジオが求心力を失った時代にあらためてインディペンデント映画の存在価値を提示する意味があっただろうし、第92回のポン・ジュノは多様性の象徴、第95回のダニエルズや第90回のギレルモ・デル・トロには賞におけるジャンル性の超越を含意していた。そのいずれの結果にも、映画界やアカデミー賞の今後への指針となるものが存在していた。

 そういった意味で今回の“PTA祭り”は、映画界の未来を指し示す毅然としたスタンスが感じられず、先述したワーナーへのはなむけというやや内向きな意味合いと、現在の社会情勢への危惧のようなものが強く出た結果、やむを得ず導き出された受賞結果に見えてしまう。もっとも、前者だけを意味するのであれば『罪人たち』(現状、黒人監督が監督賞を獲った例は一度もない)でもよかったのだが、後者も込めなければならないという点で、それだけ喫緊した社会の現状にこそ問題の所在がある。要するに、PTAが悪いわけでも作品が悪いわけでもアカデミー会員が悪いわけでもなく、ただただ“あいつ”が元凶なのである。

新設部門とノミネート数の減少が浮き彫りにする課題

『国宝』©吉田修一/朝日新聞出版 ©2025映画「国宝」製作委員会

 閑話休題。今回からキャスティング賞が新たに追加され、総部門数は24となった。数年前に音響編集賞と録音賞が統合され音響(サウンド)賞(いまだに日本語表記が統一されないが)が設けられたことで減った部門数が回復したかたちとなる。とはいえ、短編3賞とアニメ、ドキュメンタリー、国際長編のような対象が限定された部門を除き、開かれた部門に候補入りした作品数を見てみると、今回は「28」。昨年の「27」よりは1本増えたが、第95回や第96回と並び、近年で最も多かった第89回からは10本も減少している。

 賞の多様性が課題として挙げられてから数年。会員の数もバリエーションも増えたが、賞に招かれる作品は引き続き減少傾向にある。作品賞の10枠に2本の外国語作品が入り、日本から『国宝』がメイクアップ&ヘアスタイリング賞にノミネートされていたわけだが、あれだけの数の映画が公開されて賞の対象になるなかで、英語作品は20本ほどしかないというのはやはり寂しいものがある。

 それならばいっそ、作品賞の枠を5本に戻したほうがスッキリしていいのではないかとも思うわけだが、あと2年でアカデミー賞も節目の第100回。権威ある“賞”としてのあり方を貫くか(権威というものは批判的に見られがちだが、それ自体が問題ではなく使い方の問題である)、“ショウ”に振り切るかなど、いまひとつ定まりきれないでいるさまざまな立ち位置を、そろそろ見直さなくてはならないのかもしれない。

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