『再会』『未来のムスコ』『ラムネモンキー』 冬ドラマになぜ「男3人・女1人」が多い?
こうした構図を語るとき、避けられない先行作がある。『大豆田とわ子と三人の元夫』(2021年/カンテレ・フジテレビ系/坂元裕二脚本、松たか子主演)だ。3人の元夫を等距離に置き、誰も選ばないことで自分を守るとわ子(松たか子)の姿は「選択肢を持つ女性」という新しい主人公像を切り開いた一方、「複数の男性に囲まれる女性」という構図がいかに稀かを逆説的に示してもいた。逆の「女3・男1」がテレビドラマでほとんど成立しないのは、「複数の女性に選ばれる男性」という絵が視聴者にまったく異なる感触を与えるからだ。「女1人・男複数」の構図においては、女性が物語の中心に置かれ、複数の視線を受け止める側になる。それは「誰を選ぶか」を問われる受動的な立場ではなく、複数の関係性を通じて自分自身の輪郭を確かめていく能動的な立場だ。
『未来のムスコ』の汐川未来は、3人の候補から恋愛的に迫られるというより、未来からやってきた息子・颯太の存在を通じて、自分が何者であるかを問い続ける。3人の男性はそれぞれが異なる鏡として機能し、「元カレとの別れ」「幼なじみとの絆」「後輩との新しい可能性」を並行して照らし出す装置になっている。SNSでは「自分の将来について考えている未来が就活生に重ねられる」「子育てしながら働く女性にそっと寄り添ってくれる感じのドラマ」という声が相次ぎ、候補の誰が選ばれるかよりも、3人との関係を通じた女性の自己発見のプロセスに共感が集まっていることが伝わってくる。
『ラムネモンキー』は、この構図をもっとも過激な形で使う。宮下未散、すなわちマチルダは物語の現在においてほとんど「いない」。3人の記憶の中ではUFOに乗ってイスカンダルの近くへ帰っていったと美化されているが、工事現場で人骨が発見されたことで事態は一変する。贈賄疑惑で閑職に追いやられた吉井雄太、ヒットに恵まれなくなった映画監督の藤巻肇、漫画家の夢を諦めて理容室を継いだ菊原紀介——人生の「こんなはずじゃなかった」を抱えた3人が、彼女の失踪を解くことで同時に自分たちの「あの頃」を回収しようとする。3人が追っているのは女性そのものではなく、マチルダが残した「言葉」と「不在の意味」だ。SNSでは「マチルダ先生の言葉に古沢良太さんの思いを感じた」「傷ついて泥だらけになっても、という言葉に泣いた」という反響が広がり、不在の女性が現在の男たちの「これから」を照らす光源になっている。
『冬のなんかさ、春のなんかね』は、4人組という固定の枠組みをとらない点で他の3作とは構造が異なる。土田文菜の周りには、現在の彼氏・ゆきお、腐れ縁の先輩・小太郎、既婚の先輩小説家・山田線、高校時代の元カレ・秀らが、それぞれ異なる時間に顔を現す。3人が同時に並ぶのではなく、文菜の人生の時間軸を複数の男性が順に照らしていく構成だ。SNSでは「これほんまに連ドラ?」「激ヤバ沼女」という驚きの反応が相次いだが、それは恋愛ドラマのお約束を外した演出のせいだけではない。今泉力哉監督が自ら語ったように「万人に強く共感される物語ではないかもしれないが、隣の人には分からなくても“自分はこの感情を知っている”と思える誰か1人に届けば、それでいい」という姿勢が、この作品のすべてを貫いている。複数の男性との関係を時間軸に積み重ねることで、誰か1人と向き合う以前の問い——自分は何を怖れているのか——が浮かび上がってくる。「女1人・男複数」という今季の潮流の中で、『冬のさ春のね』はその問いをもっとも個人の内側へと静かに掘り下げた作品だと言える。
3作の4人組に共通するのは、「共有した過去」を持つという点だ。『再会』では小学校時代に埋めた拳銃の秘密が、『ラムネモンキー』では中学時代の映画研究部とマチルダとの記憶が、物語全体を貫くトラウマであり原動力になっている。『未来のムスコ』では、3人はそれぞれが異なる時期に汐川未来と関わった人物として並び、2036年から来た息子・颯太という「未来からの証人」が四者の関係を結び直す。『冬のさ春のね』では特定の過去を共有するのではなく、文菜1人が積み重ねてきた複数の記憶が、現在の「きちんと好きになる」という問いに収束していく。形はそれぞれ異なるが、いずれも「複数の関係性が1人の人間の輪郭を照らす」という点で一致している。
三角関係の「選ぶ・選ばれる」に飽きた視聴者が今求めているのは、恋愛のゲームではなく、誰かと「過去や時間を持つ」という感覚かもしれない。複数の関係性が重なり合いながら1人の人間の輪郭を浮かび上がらせる。2026年冬のこの布陣には、三角形的な恋愛ドラマへの静かな反乱と、「人間はひとつの関係だけでは語れない」という認識の広がりが見える気がするのだ。