齊藤京子の“言葉のリアリティ”はあまりに美しかった 『恋愛裁判』が描いた普遍的な恋の形

 映画『恋愛裁判』が描いているのは、ものすごく普遍的な恋の話だ。

 深田晃司監督自身が書いた小説版『恋愛裁判』(文春文庫)には「恋は落ちるもの、なんて誰かがいっていたけど、自由落下は簡単には止められない」とあるが、主人公・山岡真衣(齊藤京子)が落ちた「穴」は、決してドラマチックなものではない。自分に自信がなく、「もともと生まれたときから自分の心の奥底に潜んでいた劣等感(小説版より引用)」という名の怪物に打ち勝つためにアイドルを目指した女性・真衣が、1人の大道芸人の青年・間山敬(倉悠貴)による「白い風船」を使ったパフォーマンスの中に、「怪物」でさえ自分の思うままに操れる、圧倒的な自由を見出し、憧れた。恋は魔法のように2人の心を結びつけるが、やがて魔法は解け、現実と向き合う日々がやってくる。

 それでも、彼女の人生は続いていく。『恋愛裁判』とは、「アイドルが恋をすることの是非を問う裁判」を通して、彼女が彼女のまま生きていくという本来当然の権利を追求する姿を描いた映画だ。

 実際にあった裁判を元にした、アイドルグループ「ハッピー☆ファンファーレ」のセンターを務める女性が「恋愛禁止ルール」を破ったことで事務所に訴えられるという顛末を描いた本作は、これまでの深田作品を観てきた観客からすれば異色の作品と言えるだろう。

 浅野忠信演じる謎の男が入り込んだことにより崩壊する家族を描いた『淵に立つ』といい、分かり合えない悲しみを描きつつ、愛の本質を問う『LOVE LIFE』といい、その独自の世界観で観客を時に突き放し、圧倒させてきた、どちらかというと人の暗い部分を緻密に見せる作り手である深田監督が光の象徴のような「アイドル」を描くということはいかなることかと映画館に向かった人も多かったに違いない。そして観終わると、なるほど、これが深田監督の描く「アイドル映画」なのかと納得し、静かな感動に包まれずにはいられないのではないか。

 暗い部屋の扉が開き、光が入り込む。車から「ハッピー☆ファンファーレ」のアイドルたちが駆け下りてくるのが見える。それが本作の冒頭である。メイクをして、ライブの本番を迎える。ライブ会場という暗闇の中を、煌びやかな衣装を着て踊るアイドルたちが照らしているのか、それとも、彼女たちを見つめるファンたちが持つサイリウムが彼女たちを照らしているのか。暗い場所から明るい場所へ。明るい場所から暗い場所へ。度重なる明暗表現は、疑似恋愛というアイドルとファンの関係の一面を映し出すと共に、その後の彼女が“落ちてしまう”「恋愛」を並列して示す。

 なぜなら彼女は、仲間たちと共に向かった動物園で、どこからか反射する光が眩しくて、その光源を探して振り向いた結果、中学時代の同級生だった間山敬と再会するからだ。パフォーマンス中だった大道芸人の彼がつけた銀色の仮面が、太陽の光を反射して、彼女に“運命の人”の居場所を教えたのである。アイドルである彼女が太陽なら、大道芸人である彼は月だ。車を移動する「家」として、投げ銭を入れる箱と、自分の見せる芸のみで生きている彼の自由な生活と滲み出る自信を目の当たりにした彼女は、自分にないものを感じ、瞬く間に惹かれていく。

 映画『道』のヒロイン・ジェルソミーナと、チャールズ・チャップリンの写真を大切そうに車に飾る、間山敬という人物の魅力は、映画そのものに深い奥行きを与えている。真衣との恋を描いた前半部分において、子どもが手放してしまい空高く飛んでいった風船を見えない糸で引っ張るかのように手繰り寄せたり、空中散歩を披露したりと、明らかに人間離れした能力を見せるのであるが、それすら映画における「大道芸人」の役割として、あるいは恋という「魔法」の為せる技として、観客は受け入れざるを得ないのだ。

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